は米友さんが保証しているから間違いっこはありません、それに、わたしが今こうして、こんなに元気にお話を伺っていられるのも、先生のお力ですから、これが活《い》きた証拠じゃありませんか。わたしは、先生のお手にかかって殺されやしません、現在こんなに元気に生き返らせていただきました、ですから、何をおっしゃっても、先生を御信用申し上げずにはおられません――そこで先生、わたくしは冗談《じょうだん》はさて置いて、真剣に、先生にお説を伺ってみたいと思うのでございます。それはつまり、あの最初に戻りまして、世間では、子供が生れますと、ただ目出度い目出度いとお祝いをいたしますけれども、本当にそれが母となる人のために、また子として生れた当人のために、目出度いことなんでございましょうか。なお押しつめて申しますと……」
五十七
「生れない方が幸福であったり、産まないがかえってお慈悲じゃないかとさえ、わたしは思われてならないことがあるのですが……」
「なるほど」
「産んで苦労をさせるくらいなら、苦労をさせないうちに――いいえ、この世に産み落さないことにしたのが、結局いちばん幸福じゃないかと思われてならないこともあるのでございます」
「なるほど、そりゃあ――そりゃ話が元へ戻るが、元へ戻るほど根が太くなる!」
と道庵が言いました。元へ戻るほど根が太くなるという言葉だけは論理に合っているのですが、道庵が何のために突然、右様な論理を持ち出したのか、そのことははっきりしません。ただ、単純に樹木にしてからが、根元へ来るほど太くなるという現前の事実が平明に突発してみたのだか、或いはお雪ちゃんの提出した根本問題が、ようやく重大なるものに触れて行くことを怖れたのだか、その辺は相変らずハッキリしないものであるが、多少の狼狽気味は隠せないものがあるようです。実は前々お雪ちゃんから左様な、性と生との根本問題をかつぎ出されていちずに共鳴感奮してみたものの、この問題をあんまり深く追究されると、自分の焼刃が剥げることの怖れから、冗談に逃げていたのを、また引戻されて押据えられる苦しさに、道庵がうめき出したようにも聞きなされたが、道庵先生ほどのものが、たかが小娘のお雪ちゃんにあって、その鋭鋒を避けなければならんというような、卑怯未練な振舞はあるべきはずはないのです――果して、陣形を立て直して道庵先生が、しかつめらしく構え出してお雪ちゃんに答えました。
「そりゃ、人間、生れて来た方がいいのか、生れねえ方が勝ちか、そのことはわからねえね。そのことはわからねえけれど、生れ出て、こうしてピンピンしている以上、どうも仕方が無えじゃねえか――ここでまあ、仮りにわしが、お雪ちゃんを憎いと言ったところで、殺すわけにゃいかず、可愛ゆいと言うたところで、茹《ゆ》でて食うわけにゃいかず」
また、おかしくなりました。可愛ゆいからといって、茹でて食わねばならぬ論理と実際とはないのです。要するに出鱈目《でたらめ》です。
「先生、そのことじゃありません、わたしたちがこうして生きているのを、どうのこうのというわけじゃありません、これから生きようとするもの、これから生かそうとするものに就いて先生の御意見が伺《うかが》いたいのでございます」
「なに、これから生きようとするもの、これから生かそうとするもの、そんなものがこの世にあるか知ら、この一枚看板の一張羅《いっちょうら》、生かそうと殺そうと、質屋の番頭の腕次第……」
また妙な緞帳臭《どんちょうくさ》いセリフがはじまったが、お雪ちゃんは存外それに引きずられませんでした。
「つまり、なんでございますね、これからこの世の光を見せようという親の立場になり、これからこの世の苦労を味わわされようとする子というものの立場になってみてでございますね」
「ふん、なるほど、してみるてえと、母の胎内にある子のために、また、その胎内に子を持つ母のためにってなことになるのかね」
「まあ、そうでございますね、最初に申し上げたでしょう、子を産むことは必ず目出たいこととされていますけれども――そういう場合に、本当の意味では、生れるが目出たいか、産むのが目出たくないか――というような理窟になりますか知ら」
「じゃ、かりに目出たくないとするとどうだね」
「なら、いっそ、親として産まないのが善いことであり、子として生れないのが善いことじゃないでしょうか」
「はてな」
道庵は仔細らしく小首を傾《かし》げて、
「はて、お雪ちゃん、お前さんの質問が、深刻なようで上辷《うわすべ》りがし、上辷りがしているようで存外深刻でもあり、ちょっと、迷わされるがね、早い話が、結局こういうことになるんじゃねえか、どうも、そうなりそうだよ、つまり、お雪ちゃんの今の質問は論じつめると、子供が母の胎内にあるうちに、
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