れから、今まではそれでよかったが、これから開国ということになってみると、日本人も、どしどし外国へ行かなけりゃあならないのだから、人間をうんと産み殖やせということになるだろう、そうなると、これからの時勢は、右の不言実行の法度《はっと》が厳しくなる!
 というようなことまで、発展だか、脱線だか知らないけれども、道庵がお雪ちゃんのために語って聞かせました。
 しかし、お雪ちゃんは、どうもそういう政策問題には触れて行きたがらないで、ややともすれば、元へ元へと話を引戻したがっている気色《けしき》は明らかです。
「先生のおっしゃるところを伺っておりますと、子をおろすとか、間びくとかいったような行いが、たいそう悪いことのようにも聞えますし、また、そうでもないことのようにも聞えますが、いったい、どちらなんですか」
「お雪ちゃん、お前さん、またなんで、それが善いことか悪いことか、そんなに気にかけなさるんだい――どっちだって、お雪ちゃんなんかの知ったことじゃない」
「でも、先生は、そういうことを心得て置くがいいと教えて、ここまで、わたしを教え導いて下さったのじゃありませんか」
「心得て置くがいいったって、お前、程度というものがあらあな、この辺でいいよ、この辺で打切っちまおうよ、面倒臭いから」
「いけません、先生、すでにお話し下さらないなら格別、もう、ここまでお話し下さって、ここでやめてしまっては、本当の教育にはなりませんね、かえって、人に煮えきらない疑問を持たせて毒になりますから、わたしは承知いたしませんよ、わたしが承知しましても、わたしの研究心が満足しませんから」
「こいつはむつかしいことになった、お雪ちゃんの逆襲だ、こいつはたまらねえ」
「わたしは、心ゆくばかり伺ってしまわなければ満足しない病があるんでございます、こんな機会に、またとない先生から伺って置かなければ、生涯の大事な学問をしそこなってしまいます」
「驚いたね、こうまで逆にとっちめられようとは思わなかった、こうなると、道庵も、もう後ろは見せられねえ、何でも聞きな、あけすけに――矢でも鉄砲でも持って来い」
 急に力《りき》み出して、啖呵《たんか》を切ったものですから、お雪ちゃんがまた笑い出して、それでもこの機を外さないように、抜け目なく問題を持ちかけてしまいました――
「では伺いますが、先生、お江戸には中条《ちゅうじょう》ってお医者があるそうじゃございませんか」
「なにチュウジョウ――そんな医者は知らねえ、そりゃたくさんの藪《やぶ》の中には、そんな筍《たけのこ》もあるかも知れねえが、いちいち姓名は覚えちゃいられねえ。チュウジョウ――おいらの近づきにゃ、そんな……待ちな、ああそうか、チュウジョウじゃねえ、ナカジョウだろう、中条と書いてナカジョウと読んでもれえてえ、あれだろう、字は同じなんだが」
「そんならナカジョウですか、あれは何をするお医者なんでございますか」
「驚いたね――中条というお医者は何をするお医者さんだと、年頃の娘さんから赤い面《かお》もしないで……反問されようとは予期していなかった」
と道庵は、眼をギョロギョロさせて、気味の悪いほど、しげしげとお雪ちゃんの面をながめましたから、その時に、はじめてお雪ちゃんが少々恥かしい気になりました。
「お雪ちゃん」
 道庵はとぼけたような、とぼけないような面をして、とろりと――お雪ちゃんの面をながめながら、
「お雪ちゃん――お前さんは」
「先生、そんなに、わたしの面ばっかりごらんになってはきまりが悪うございます」
「いいんや、こっちがかえって面負けなんだ。だが、お雪ちゃん、しっかりしなくちゃいけねえぜ」
「何をでございます、先生」
「何をったって、お前さん、見かけによらねえ白無垢鉄火《しろむくてっか》だ」
「何でございますか、それは」
「お前は、今まで、鎌をかけかけ、この道庵から絞り出そうとたくむ敵は本能寺にあることがよくわかった、全く小娘と小袋は油断ができねえ――」
「いいえ、なにもわたしは、たくんで先生から物事を承ろうとも致しません」
「致さないことがあるものか、お雪ちゃん、お前は、さいぜんから、この酔っぱらいを、舌の先で遠廻しに操《あやつ》って、この道庵の慈姑頭《くわいあたま》から絞り出そうという知恵は、つまり子をおろす方法と、それから子種を流すにいい薬でもあったら、それをたぐり出そうとこういう策略なんだ、わかった、全く油断ができねえ、お雪ちゃん、お前という女は雪のように白い女だか、もう泥のように真黒くなっているんだか、そこんところを、これから拙者が見届けて、それからの挨拶だ、人間というやつは、うっかり信用すると一杯食わせられる」
「まあ、ひどい――先生は何というヒドイ邪推をなさるお方でしょう。御自分で、わたしを教育して下さるとおっ
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