いますわ」
「違《ちげ》えねえ、こいつは一本参った」
道庵は仰山に右の掌で額を叩いてから、
「将来のために言って聞かせてあげることが、現在に混線しちゃったんだ、これというもみんなためを思って言うことだから、悪くとらずに聞いておくんなさいよ、エロで言うわけじゃねえんだから……」
と、道庵はしきりに言いわけをしてから、
「それから、良い子を上手に産もうとするには、右の灸点を受けてから、身体の持扱いだね、身体をゆったりとして置くことだね、よく坊さんがそれ、禅というのをするだろう、あれだね、あの形で正しくゆるやかに――といっても結跏《けっか》といって、足をあんなに組むには及ばねえ。そうしてるんだね……」
「先生、わたくしは、子供を産むということに就いて、日頃一つ考えさせられていることがあるのですけれど、きいて下さいますか」
お雪ちゃん、なぜかこんどは自分から積極的に突込んで、道庵先生に向って、日頃の疑問を晴らそうと試むる態度に出たものですから、道庵も乗り気になって、
「うむ、何でも質問してごらん、聞くは末代の恥、聞かぬは一時《いっとき》の恥ということもある、何でも、先輩に向って遠慮なく物を質問してみるようでないと、学問は進歩しねえ」
そこで、まじめに質問をしかけながら、お雪ちゃんが少しおかしくなりました。というのは、いま道庵が、聞くは末代の恥、聞かぬは一時の恥と言ったのは、たしかに比較が顛倒《てんとう》している。正しくは、聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥――と言わねばならないところを、顛倒してしまっているのだから、せっかくの格言俚諺《かくげんりげん》が全然意味を逆転せしめてしまっている。しかも、道庵は下流文士がわざとトンチンカンを言って擽《くすぐ》るのと違って、自分がそれに気がつかないで、頭は正当の意味で、口だけが逆転しているのだから罪はない――まだ初対面早々のことではあり、ことに相手が、自分で気がつかないでまじめくさっているものですから、吹き出してしまうのも失礼の至りと、お雪ちゃんはやっと我慢をして我にかえり、
「世間で子供が生れますと、ただ目出度い目出度いとお祝いをいたしますけれども、本当にそれが母となる人のために、また子供として生れた者のために、目出度いことなんでしょうか。親は子を産むために疲れ、子は産み落されて、世の中に翻弄《ほんろう》されながら生きて行かなければならない、そういう場合に、産むということも、生れるということも、そんなに目出度いことなんでしょうか。それから、人がたくさんに子を産んで、この世に人間が殖えて行くことが、果して世間のためにも、人間のためにも、幸福なことなんでしょうか。世間には、産まない方が慈悲であったり、生れない方が幸いであったりする人はないでしょうか。人間というものは、どうしても、結婚して、子を産まなければならないはずのものなんでしょうか」
「そこだ!」
と道庵が、また何かに感奮して、盃を下に置くと共に、掌で丁と額を叩きました。
五十五
「そこだ!」
と道庵先生が、何かに昂奮して盃を下に置くと共に、掌で丁と額を叩いたが、やがて、仔細らしく物おだやかに、お雪ちゃんに向って語り出しましたのは、
「わしも御承知の通り、医者ですから、人助けが商売みたようなわけなんでしょう、人の見放した難病を癒《いや》したり、死んだ者までも生き返らせたりするのが商売のようなもんだが、どうかすると、つくづく考えることがあるね、こんな野郎や、こんな阿魔ッ子を、生かして置いたって仕方がねえじゃねえか、こんな奴は一思いに眠らしちまった方が功徳じゃねえかと、そう思うことが無きにしもあらずなんでげす、正直のところ……」
そうすると、お雪ちゃんが、
「先生、お医者さんが、そんな情けない心になっちゃ困るじゃありませんか。ですけれども先生、口と心とは別なんでしょう」
「なあに、口と心とは別じゃねえんだが、心と手とが別になるんだね――心のうちじゃあ正直のところ、こんな奴は眠らしちまった方が、御当人も助かるし、世の中にも一匹の穀《ごく》つぶしが存在しなくなるという効能になるんだが、どうも、その場に至ってみると手が承知しねえんでね、この手が……」
道庵は、その変にひねくれた長っぽそい手をつき出して、お雪ちゃんに見せました。
「この手が、どうも、ついどうも、未練たっぷりでね、殺そうと思っちゃ、つい生かしちまうんでね。今日まで、ずいぶんよけいな殺生《せっしょう》、じゃねえ、よけいな人を生かしてしまったね。ロクでもねえ奴は殺しちまえば、お前《めえ》、今も言う通り、それだけこの世の穀つぶしが減るわけなんだね。まあ、一人の野郎が、仮りに一日に五合ずつの米を食うとしてからが、月に一斗五升、年にならすと一石八斗、まあざっと四俵半、数
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