が悪いから一人五俵として積ってみなせえ、千人殺せば年に五千俵の米が浮く。五千俵の米がお前、価《ね》に踏んでいくらになると思う、近年のように米価の変動が烈しくっちゃあ、勘定をしても間《ま》に合わねえが、かりに一俵一両としても五千両、二両とすれば一万両という勘定になる。それをお前、こちとらのような貧乏人となると小買いだから、グッと割が高くつくんだぜ、ことにこれから拙者共が出向いて行こうという京阪地方なんぞと来ては、物価が目玉の飛び出すほど高くなっているという知らせを聞いているから、拙者も実は青くなっているところなんだよ。なんでも近ごろは京阪での白米の一升買いが一貫二十四文ということだから、貧乏人は大抵こたえらあな。それに準じてお前、人間は米ばかり食って生きていられるというわけのものじゃあねえ、お副食物《かず》も食わなけりゃならず――この方も一杯やらなけりゃあならず」
と言って、道庵が膝元に置いた盃を取り上げようとしたが、手元が狂って、盃が転がり出してしまって、ちょっと当りがつかなかったものですから、とりあえず、手真似《てまね》で一ぱいやるしぐさ[#「しぐさ」に傍点]をして見せたのが、真に迫りました。
「それからお湯に入らなけりゃあならず、年に二度や三度はお仕着《しきせ》もやらなけりゃならず、それからまた時たまは、芝居、活動の一ぺんも見せてやらざあならず(註、ここに道庵が活動といったのは、例の脱線であろうと思われる、その当時はまだ世界のいずれにも活動写真というものの発明は無かったのである)ちょっと髪を結うにしても、八十八文取られるということだし、湯銭が二十文の、糠代《ぬかだい》が十二文と聞いちゃ、これから京大阪へ乗込もうという道庵も、たいてい心胆が寒くなるわな。食い雑用をさし引いて、人間一匹を生かして置く費《つい》えというものは生やさしいものじゃねえんだ。よく世間の奴等あ、食えねえ食えねえと言って、貧乏をすると一から十まで米のせい[#「せい」に傍点]にして、高いの安いのと文句を言うが、米の野郎こそいい面《つら》の皮さ、何も米ばかりが食い物じゃねえんだ、ばかにするな!」
 ここでまた道庵の脱線ぶりが、米友かぶれがしてきました。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
とお雪ちゃんがまた笑って、それにつぎ足して言いますには、
「それは、先生、費えの方ばかり考えますと、そうかも知れませんが、その人がみんな遊んで食べているわけじゃありますまい、それぞれ稼《かせ》ぎをして、食べて行くんですから、そう憎んじゃかわいそうですね」
「ところが、なかなか、稼ぎをして食って行くなんていう筋のいいのばかりはねえんでね、食っちゃあ遊んでいるのはまだいいがね、どうかして人の稼ぎためを食いつぶして、自分は楽をして生きて行きてえという奴がうんといるんだから、そんなのは、いいかげんに眠らしちまった方がいいんだが、さて、今いう通り実際となると、なかなか、この手が言うことを聞かねえんでな、ついつい、無慈悲な、人生《ひとい》かしをしちまうんだ、人殺しも感心しねえが、人生かしという商売も、これでなかなか辛《つら》いよ」
「ですけれど、先生、そう一概に悪い人ばかりあるわけではござんすまい、こういう人を助けて置けば、国のためにもなり、人のためにもなる、こういう方はぜひ助けて置かなければならないと、お考えになることもあるでございましょう」
「無《ね》えね――」
 道庵先生が言下に首を横に振ってしまったものですから、お雪ちゃんも、あんまり膠《にべ》のないのに少々|狼狽《ろうばい》気味でした。そこを道庵が一杯ひっかけながら、
「こいつは生かして置いてやりてえ、こいつは生かして置かなけりゃならねえ、なんぞと惚《ほ》れこんだ奴は、今までに一人もお目にかからなかったのさ、生かしてみて、まあ、どうやら我慢ができるという奴は一人や半分はあったね――今いう、お前《めえ》、あの米友公なんぞも、その中の一人に数えていいんだが、おりゃまだ、はなから、こいつを生かして置いて、可愛がってやろうなんていう奴には一人も出くわさねえのさ。脈を見たり、薬を盛ったりしてやる時に、腹ん中じゃ、こう思ってんだね、手前《てめえ》たちゃ、道庵ほどの者にこうして脈を取らせたり、安くねえ薬を調合させたり、お手数をかけて、そうして生きていてもらわなけりゃならねえほどの代物《しろもの》じゃねえんだが、道庵もそれ、商売となってみれば、こうしてやらなけりゃ食って行けねえ、今いう通り、食って行くだけじゃ生き甲斐がねえ、食っての上に生き甲斐をもあらせようとするには、それ、一杯も飲まなくっちゃあやりきれたものでねえ、そこで、商売上やむことを得ずしてお前たちを助けようてんだ、あんまり大面《おおづら》をするなよ、と内心こう思って脈を取ったり、薬を盛ったりしている
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