、こうして弁信から、「物を承りたい」と呼びかけられた当面には、何か相当のものが存在していなければならないはずなのです。
 果して、有りました。有ってみると、かくべつ珍しいものではありませんでした。
 それは、今も言った弁信が、杖を立てて踏み止まったところから、ある僅少の距離を隔てて、荒草の間に蟠踞《ばんきょ》していたところの巨大なる切石のはざまにうずくまって、丸くなって寝ていたところの一つの動物があったのですが、それはちょうど、弁信の立っているあたりの地点の背面からは見えないのみならず、前へ廻って見たところで、丈《たけ》なす荒草と、切石というよりも巌と巌との間と言った方がふさわしいほどの、岩角のはざまにはさまって眠っているのですから、わざわざ探さない限り認められようはずがありません。且つまたこの動物は、この絶対の避難地とも安全地帯とも言える穴蔵《あなぐら》の中で、いとも快き眠りを貪《むさぼ》っているものですから、寝息とても非常に穏かなもので、昼寝の熟睡に落ちているのですが、弁信の第六感に逢ってはかないませんでした。
「モシ――お仕事中をおさまたげして相すみませんが、少々物を承りたいのでございますが」
 二度まで繰返して、それから、とんと一つ杖をつき返してみました。その杖の音にはじめてこちらの動物が夢を驚かされたのでしょう、むっくりはね起きて、
「なに、なに、何だって、誰か何か言ったのかい」
 動物が、むっくりと巌角の間から身を起して、こう言って、キョトキョトと眼を見廻したことによって、単なる動物でないことがわかりました。
 巌とはいうけれども、本来、ここにこういう岩石が構成されているという地質のところではないのですから、何かその昔の、相当宏大なる建築の名残《なご》りでなければならないところの巌と巌との間にはさまって、快眠を貪っているところだけを見れば、誰にも動物! むじなとか、狸とか、或いは穴熊とか言ってみたくなるでしょうが、こうしてむっくりはね起きて、その瞬間、歯切れの悪くないタンカを飛ばしたところを見れば、もちろんこれも動物の一種には相違ないが、その意外なる存在に少々驚き呆《あき》れしめる。一方の小法師はその図を外さずに、
「あの――少々物を承りたいのでございますが、この辺にりんこ[#「りんこ」に傍点]の渡しというのがございましょうか。わたくしは、その渡しから竹生島へ参詣を致したいと思って参ったものなんでございますが……」
「なに、何だ、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡し、その渡しからお前は竹生島へ渡りてえんだって、待ちな、待ちな」
と言って、眼をこすって右の動物がすっくと岩角の間を分けて、荒草の中から立現われたところを見ると、なあんのことだ、これぞ、あんまり知らない面でもない宇治山田の米友でありました。
 だが、弁信はまだ米友を知らない、米友もまだ正当には弁信に引合わされていないと見てよろしい。そこで、暫くは生面未熟の間の人と人として、荒草を間にして当面に相立ったのです。
「おいらも、本当のところは、この土地の人間じゃあねえんだから、よく地の理を知らねえんだ、だが、この土地は、江州の長浜といって湊《みなと》になってるんだから、船つきも、船の出どころも、いくらもあるよ、どこがりんこ[#「りんこ」に傍点]の渡してえんだか、おいらは知らねえが、竹生島というのは眼と鼻の先なんだ、頼んでみたらいくらも船は出るだろう」
「そうおっしゃるあなたは、もしや米友さんではございませんか」
「え、え、おいらを米友と知ってるお前は誰だい」
「わたしは弁信でございます」
「弁信?」
「はい、米友さん、あなたのお名前は、お銀様からも、お雪ちゃんからも、絶えず聞いておりました、わたくしは、やはりあの胆吹山の京北御殿に厄介になっている弁信でございますよ」
「ははあ、そうか、お前があの弁信さんか」
と、米友も合点《がてん》がゆきました。
 そうして、ここで心置きなく、荒草をずしずしと踏みしだいて、弁信をまともに見るべく進んで行きましたが、むしろ、こんなところに、こうして米友が休息をしていたという現象によって見ると、今暁、ああして道庵先生をお雪ちゃんの寝室に抛《ほう》り込んで置いて、闇の中へ身を陥没してからの後の動静というものが、朧《おぼろ》げながら連絡をとれる。すなわちあれからともかくも、この長浜の地まで一気に山腹を走り下ったものと見なければなりますまい。
 そうして何をか目ざし、何をか当りをつけようとしたが、その効果のほどはわからないが、ともかくも、この安全地帯まで来て、しばしの快眠を貪り、やがてまた、相当の進出を試みようという休養時代であったことがよくわかります。その休養期間を思いもかけず、弁信というものが来て驚かしてしまったという径路もよくわかりま
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