す。
 かくて、米友と弁信とは、近江の湖畔のこの地点で当面相対して、水入らずの会話をしなければならないように引合わされました。
 二人はついに、この巌蔭の日向《ひなた》のよい地点を選んで、そこを会話の道場としましたが、この巨大なる切石であって、同時に巌石と巌石の形を成している石質の由来を弁信が勘で言い当てました。多分これは、太閤秀吉が長浜の城主であった時代の遺物、その秀吉の城郭の一部をなした名残《なご》りの廃墟の一つでありましょう。そうでなければ、この辺に斯様《かよう》な大岩石があるはずはないというようなことを、弁信がうわごとのように言いました。

         五十二

 女興行師のお角親方は、一つには胆吹山入りをした道庵先生を待合わせる間、一つには三井寺参詣と八景遊覧のために、大津へ先着をして参りました。
 そうして、三井寺へも参詣をすませ、法界坊の鏡供養も見て、今日は舟を一ぱい買いきって、これから瀬田、石山方面の名所めぐりをしようという出鼻であります。
 お角さんのことだから、日頃あんまりケチケチするのは嫌いなんだが、ことに旅へ出てこういう素晴しい名所に出くわした上に、いよいよ京大阪も目と鼻の間ということになってみると、心がなんとなくはずんで、いでたちがけばけばしくなるのは、勢いやむを得ないことであります。
 見れば、お角さんの買い切った一ぱいの舟には幔幕《まんまく》が張り立てられ、毛氈《もうせん》がしかれて、そこへゾロゾロと芸子、舞子、たいこ末社様なものが繰込んで来るのです。
 そうして、舟宿がペコペコと頭を下げる中を、おともの若い者二人を具して、お角さんが大様《おおよう》に乗込んで来ました。
 そうすると、げい子や舞子、たいこ末社連がよく聞きとれない言葉で、ペチャクチャとお追従《ついしょう》を言って取巻いて、下へも置かずお角さんを舟の正座に安置する。
 左右へ、若い衆や庄公が着いて、舞子や、たいこ末社が居流れる。
 そしてまた舟の中へ、酒よ、肴《さかな》よ、会席よ、といったものが持運ばれて、出舟までの準備さえ相当の手間が取れるのです。
 お角さんの気象がおのずからはずんで、京大阪への手前、多少とも江戸ッ子は江戸ッ子らしく振舞ってみせなければ、後の外聞にもなるといったような、お角さん相当の負けない気で、この際、自分が江戸ッ子を代表してでもいるような気位になるのも是非がないでしょう。そこでこの八景めぐりが自然にお大尽風を吹かせるような景気になって、そこは、相当の要所要所へ金をきれいに使うことは心得ている。舞子や、たいこ末社まで取巻に連れ込んだのは、これは何か偶然の達引《たっぴき》か、そうでなければ、転んでも只は起きない例の筆法で、この一座のげい子、舞子、たいこ末社連のうちに、将来利用のききそうな玉があると見込んでいることかも知れません。
 とにかくこうしてお角さんの八景巡りは、仰山ないでたちでありました。道を通る人も、乗る舟を見かけて集まるほどの人も、みんなこの華々《はなばな》しい景気に打たれて、眼を奪われないものは無いのです。そうしてどこのお大尽の物見遊山かと、その主に眼をつけると、案外にも関東風の女親分といったような伝法が、しきりに舟の中で指図をしたり、叱り飛ばしたり、おだてたりしているものですから、舞子、芸子、たいこ末社の華々しさよりは、この女親分の威勢のほどに気を取られ、目を奪われないものはありません。
 こうして、お角さんの八景遊山舟が出立の用意に忙がしがり、岸に立つ者、もやっている舟の注視の的になって、その風流豪奢のほどを羨《うらや》んだり、羨ましがられたりしているところへ、群衆を押分けて、のそりのそりとお角さんの舟へ近づいた異形《いぎょう》のものが一つありました。
 頭はがっそうで、ぼうぼうとしている。身にはやれ衣[#「やれ衣」に傍点]をまとい、背中に紙幟《かみのぼり》を一本さし、小さな形の釣鐘を一つ左手に持って、撞木《しゅもく》でそれを叩きながら、お角さんの舟をめがけて何かしきりに唸《うな》り出しました。
 その姿を見ると、芝居でする法界坊の姿そのままですから、あほだら経でも唸り出したのかと見ればそうでもなく、謡《うたい》の調子――
「秋も半ばの遊山舟、八景巡りもうらやまし、これはこのあたりに住む法界坊というやくざ者にて候、さざなみや志賀の浦曲《うらわ》の、花も、もみじも、月も、雪も、隅々まで心得て候、あわれ一杯の般若湯《はんにゃとう》と、五十文がほどの鳥目《ちょうもく》をめぐみ賜《たま》わり候わば、名所名蹟、故事因縁の来歴まで、くわしく案内《あない》を致そうずるにて候、あわれ、一杯の般若湯と、五十文の鳥目とをたびて給《た》べ候え、なあむ十方到来の旦那様方……」
 こんなことを謡の文句で呼びかけるもの
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