は相手を嫌わないのであります。ですから、一向ひるむ気色《けしき》もなく、そのまま右の辻から杖をうつそうとすると、
「待て――」
と言って、一人の足軽が棒をもって物蔭から立現われました。
「はい」
「坊主、貴様はどこへ行くのだ」
「はいはい、わたくしは竹生島へ参詣をいたしたいと心得て出てまいったものでございます、最初の出立を申し上げますると、日蓮上人が東夷東条|安房《あわ》の国とおっしゃいました、その安房の国の清澄のお山から出てまいりまして、その後追々と国々を経めぐってようやくこの近江の国の胆吹山の麓まで旅を重ねて参りましたものでございますが、ごらんの通り、旅路のかせぎと致しまして、平家琵琶の真似事を、ホンの少しばかりつとめますもの故に、この近江の国の竹生島は浅からぬ有縁《うえん》の地なのでございます……」
「これこれ、そうのべつにひとりで喋りまくってはいかん――貴様、見るところ目が見えないのだな」
「はい、ごらんの通りでございます、まことに前世の宿業が拙《つたの》うございまして、人間の心の窓が塞がれてしまいました、浅ましい身の上でございます。そもそもわたくしがこのような運命に立至りました最初の……」
「これこれ、まだ貴様の身性《みじょう》を調べたわけではないのだ――連れはあるのか、ないのか」
「はい、連れと申しまするのは一人もございません。一緒に連れて行ってもらいたいと申したものはございましたが、思案をいたしてみますると、独《ひと》り生れ、独り死に、独り去り、独り来《きた》るというのが、本来出家の道でございまして、ましてこの通り不具《かたわ》の身ではありますし、われひと共に迷惑のほどを慮《おもんぱか》りました事ゆえに、わたくしは誰にも挨拶なしに、こっそりと抜け出して参りました。あの竹生島へ渡りますには、大津から十八里、彦根から六里、この長浜からは三里と承りました、このいちばん近い長浜の地から出立させていただくことも、本望の一つなのでございます……そもそも私がこのたび、近江の国の土を踏みまして、琵琶の湖水を竹生島へ渡ろうと思い立ちました念願と申しまするは……」
「いいから行け! 行け!」
 足軽はついに匙《さじ》ではなく棒を投げてしまいました。つべこべとよく喋る坊主で、黙って聞いていれば際限がなかりそうだし、そうかといって、咎《とが》め立てをして拘留処分を食わすには余りに痛々しいものがある。それにまた、江州長浜という土地は、昔は錚々《そうそう》たる城下の地であったが、近代は純然たる商工都市になっている。そうして同時に信仰の勢力がなかなか侮《あなど》り難いものがある。うっかり坊主を侮辱して、現世罰の祟《たた》りを受けてもつまらないと感じたのか、そのことはわからないが、足軽がとうとう棒を投げ出して、弁信の無事通過を許さざるを得なくなりました。

         五十一

 しかし、どこをどうして来たか、そのうちに弁信は湖岸の一部へ出るには出ました。
 そのたずねていたところの、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡しというのが、果していずれのところにあって、その乗合船の出発の時間がいつであるかということの観念はないらしいが、とにかく船着だから、水に近いところにあるという判断には間違いなく、さればとりあえず湖の岸へ出ることによって、目的地に当らずとも遠からぬ地点に達していると信じてはいるらしい。そうして湖岸をめくら探しにぐるぐる廻っているうちに、瓢箪《ひょうたん》のくびれたような地点をとって、岬と覚しい方面へずんずん進んで行ったのでありましたが、さすがの弁信もここでは少々勘違いを演じたと見え、岬の突端の方を当てにして進んで行くほど物淋《ものさび》しくなって、草深くなって、そうして木立さえ物々しくなるのでありました。通常、山へ向っては奥深く、水へ向っては殷賑《いんしん》を予想されるのでありますが、今はそれが裏切られて行くような筋道にも、弁信はさのみ失望しなかったと見えて、その草叢《くさむら》の中を進み進んで行きますうちに、ある巨大なる切石が置捨てられてあるところで足を止めました。
「モシ――」
と、そこでまた突然と、物に向って呼びかけたのですが、無論、誰もいないのです。見渡す限り、この荒園のようになっている木立の間から、湖面が渺《びょう》として展開されているのを見るには見るが、そのあたりは全く人気のない荒涼たる湖岸の地となっているところで、弁信が足をとどめて聞き耳を立てて後、「モシ――」と言ったのは、前例によって見ると、何ぞ相当に人臭いものをかんづいた故にこそでしょう。しかし、手答えはありませんでした。
「モシ――少々物を承りたいのでございますが」
 明眼《めあき》の人の眼は外《はず》れても、弁信の勘の外れた例のないのを例とすることによって
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