らぬけ出した後の寝床にもぐり込んで、すやすやと寝息を揚げておりました。事実上これでは逆で、米友がいない限り、病人を寝かせて置いて、道庵が看護を兼ね、仕儀によっては流し元までも立廻らなければならない状態が逆で、病人を働かせて、自分がすやすやと寝息を揚げるということは、あまりのことなのですが、また、取りようによれば、こうして病人がともかくも働けるようになり、お医者さんがすやすやと寝られるようになったればこそ、もう占めたものなので、これがまた逆に戻って、道庵が水瓶をひっくり返したり、鉄瓶を蹴飛ばさなければならないようになっては、おしまいです。
自在に鍋をかけて、何か朝の仕度をしながら、お雪ちゃんはやつれた面に乱れた髪を少しかき上げて、火箸《ひばし》で暫く火いじりしながら、物を考え込んでおりました。そこへ、
「お早うございます」
と表からおとのうたのは、意外のようで意外ではない人でした。
「これは不破の関守さん」
「昨晩は失礼をいたしました」
「どうもおかまい申しませんで」
「友さんは――」
「ちょっと今、出かけましたのですが、もう戻りそうなものです」
「お雪ちゃん、あなた、少しお面の色が悪いようですな」
「昨晩、ちょっとね……」
「どうか致しましたか」
「ちょっと加減が悪かったものですから」
「それはいけません、お薬がございますか」
「はい、お薬もございます、幸い……」
と言ってお雪ちゃんは、お薬の次に、幸いお医者さんも――と言おうとして、急にさし控えて、
「おかげさまで、もうすっかり癒《なお》りましたから、御安心下さいまし」
「それは何よりでございます」
不破の関守氏は、そろそろと炉辺へ近寄って来て、腰をかけ、煙管《きせる》を掻《か》き出しながら心安げに話をしました――
「昨晩は、それでもまあ無事でよろしうございましたな」
こちらは、あんまり無事でもなかったのですが、関守氏の言うことをあげつらうのも、と思ってお雪ちゃんは、
「はい、おかげさまで……」
「実は、ここまで押寄せて来はしまいかと、拙者はそれを心配したものでございますからな、ロクロク寝《やす》みませんでした。それでも幸いに春照の高番あたりで、ちょっとしたボヤがあっただけで、無事に済んだのが何よりでございました」
関守氏の、無事でよかった、無事でよかったということが、お雪ちゃんにはよく受取れないのです。昨晩、長浜方面から帰りがけだと言って立寄った時に、関守氏が何か言ったようだけれど、いろいろに気の散っているお雪ちゃんには、それが思い出されないでいると、関守氏は続けて、
「しかし、まだ今晩が剣呑《けんのん》でござんすからな、友造君によくそのことを話して置いて、相成るべくは早く戸を締めて、そうして燈火《あかり》も外へ漏れないようにすることですな」
さまで念を入れての警戒が、お雪ちゃんによく呑込めないでいたが、ようようそれと感づいたか、
「関守さん、もう大丈夫でございますよ、友さんの親切で、子供を連れて行ってしまったんですもの、そうしつこく[#「しつこく」に傍点]仕返しになんぞ来はしないとわたしは思いますわ」
「何のことです、お雪ちゃん」
「関守さん、あなた何のことをおっしゃっていらっしゃるのですか」
「何のことじゃありません、昨晩もちょっとお話ししたじゃありませんか、湖岸一帯のあの一揆《いっき》暴動のおそれなんですよ」
「まあ、そのことでございましたか、わたしはまた、あの鷲《わし》の子のことかと思いました」
「いや、そんなんじゃありません、鳥獣《とりけもの》の沙汰《さた》じゃないのでごわす、人類が食うか食わぬかの問題でして……」
そこで、お雪ちゃんにも、関守氏が関心を置くことの仔細がよく呑込めました。
四十九
「まあ、お聞きなさい、お雪ちゃん、こういうわけなんです、事の起りと、それから騒動の及ぼすところの影響は……」
と前置きして、関守氏がこんなことを語り聞かせました、
「今度の検地は、江戸の御老中から差廻しの勘定役の出張ということですから、大がかりなものなんです、京都の町奉行からお達しがあって――すべての村々に於て、この際|如何《いか》ような願いの筋があろうとも聞き届けること罷《まか》り成らぬ、というお達しがあって、村々からそのお請書《うけしょ》を出させて置いての勘定役御出張なのです。そこで老中|派遣《はけん》の勘定役が、両代官を従えて出張してまいりましてな、郡村に亘《わた》って検地丈量の尺を入れたのでござるが、もとよりお上《かみ》のなさることだから、人民共に於て否《いな》やのあろうはずはないのでござるが、そのお上のなさるというのが、必ずしも一から十まで公平無私とのみは申されませんでな」
関守氏は煙管を炉辺でハタハタとはたいて、吸殻を転がし
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