落してから、吸口をスバスバとつけてみて、
「つまるところ、わいろ[#「わいろ」に傍点]なんですね。当節は到るところ、それなんだからいけませんなあ、わいろ[#「わいろ」に傍点]でもってすっかり手心が変るんですからいけません、いったい役人がわいろ[#「わいろ」に傍点]を取って、公平を失するということほど政治上いけないことはありませんね。百姓共は圧制に慣れているから一時は泣寝入りのようなものの、いつかそれが溢れると恐ろしいことになります。今度の騒ぎも、そもそもその江戸御老中派遣の勘定方が、わいろ[#「わいろ」に傍点]によって検地に甚《はなはだ》しい手心を試みた、それが勃発のもとなんで、早い話が……」
関守氏が元来、話好きなのに、お雪ちゃんという子が聞き上手とでも言おうか、相当に理解がある上に、知識慾も盛んで、あれからホンの僅かの間の交際ではあるけれども、関守氏は、お雪ちゃんを話相手とすることが好きなので、暇を見ては話しに来ることを楽しみにしているようなあんばいで、お雪ちゃんもまた、この人が話好きであるのみならず、よく物事の情理を心得ていることを知っているから、悪くはもてなさないので、つい話もはずんで行くのでした。そうして、その話すところをかいつまんでみると、次のようなことになるのです――
江戸老中派遣のわいろ[#「わいろ」に傍点]を取る役人が来て、思う存分に間竿《けんざお》を入れる。そのくらいだから寛厳の手心が甚《はなはだ》しく、彦根、尾張、仙台等の雄藩の領地は避けて竿を入れず、小藩の領地になるというと見くびって、烈しい竿入れをしたものだから領民が恨むこと、恨むこと。そこで、これはたまらぬと庄屋連が寄合って、竿入れ中止の運動を試みようとしたが、そこはわいろ[#「わいろ」に傍点]役人に抜け目がなく、あらかじめ一切の訴願まかりならぬという請書を取ってある。しかし領民たちになってみると、死活の瀬戸際だから黙止してはいられない。その鬱憤が積りつもると、大雨で水嵩《みずかさ》が増して行くように、緩慢に似てようやく強大である。どこの村からどう起ったということは今わからないけれど、近江の四周の山水が湖水へ向いて集まるように、湖岸一帯の人民の不平が、ある地点へ向って流れ落ち、溢れて来る。たとえば、野洲《やせ》郡と甲賀郡の嘆願組が合流して水口《みなくち》に廻ろうとすると、栗田郡の庄屋が戸田村へ出揃って来る。勘定役人が甲の川沿いから乙の川沿いに行こうとすると、丙の郡の農民が結束して集まるもの数千人、ことに甲賀郡西部方面から押し出した農民は、水口藩警固の間をそれて権田川原に屯《たむろ》し、同勢みるみる加わって一万以上に達し、破竹の勢いで東海道を西上し石部の駅に達したが、膳所《ぜぜ》藩の警固隊を突破し三上村に殺到、ここで他の諸郡の勢いと合し、無慮二万人に及んで三上藩に押し寄せるという勢力になった。
幕府の勘定方の役人は、そのとき三上藩にいたが、藩の役人が怖れて急ぎ避難をなさるようにと勧《すす》めたが、剛情な幕府勘定方役人はそれを聞き入れない。ついに群衆は陣屋へ殺到して、勘定方役向を取囲んで口々に歎願を叫んでいる。幕府勘定方役人の生命《いのち》も刻々危急に瀕《ひん》している――
というような情状を、関守氏が自分で集めて来たのと、風聞に聞いたのとを差加えて、お雪ちゃんに説明して話の興がようやく酣《たけな》わになるところへ、そろりそろりと音がして、その場へぬっと道庵先生が寝ぼけ眼《まなこ》で現われて来ました。
それを見ると関守氏も、一時は呆気《あっけ》にとられましたが、お雪ちゃんも、少しきまりが悪い思いをしながら、
「あの、関守さん、この先生は、米友さんの御主人でございまして、お江戸から上方《かみがた》への御旅中なのですが、昨晩、米友さんがお連れ申しました」
「は、さようでござるか、それはそれは」
「わっしぁ、道庵でげす、なにぶんよろしく」
道庵先生が、すっかりすまして、まだ面《かお》も洗わないのに炉辺へ納まり込んでしまいました。
ここで、関守氏と道庵先生に話をさせたら、また一市《ひといち》栄えるだろうと思われたが、そこはおたがいにまだ生面《せいめん》のことではあり、さすが話好きの関守氏も、これを機会に御輿《みこし》を上げて立帰ることになると、お雪ちゃんが、
「では、関守さん、またおひまを見ていらっして下さいまし」
とお雪ちゃんは、余情を残しただけで、強《し》いて関守氏を引きとめようとはしませんでした。
「では、さようなら」
関守氏は入って来たトンボ口の方から出て行ったが、暫くして南表広庭の方へ廻ったと見えて、そこで誰を相手にともなく、こんなことを言い出したのがよく聞えました、
「弁信さんにも困ったものでねえ、この騒ぎの中を出かけましたよ、竹生島
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