返して、こんどはまたクルリと元の方へと寝返りを打っての高いびきです。
 詮方なく、米友がまたこちらへ立返って、そうして、
「先生!」
「ムニャ――」
 今度は一言でまた寝返りを打って、あちらを向いてしまいましたから、米友が勃然《ぼつぜん》として怒りをなしました。
 ふざけてやがる、おいらがこうして起してるのを承知してやがるんだ、承知の上で、わざとムニャムニャとしらばっくれておいらをからかって、あっちへ向いたり、こっちへ向いたり――人をばかにしてやがる、常の場合ならいいが、こっちはこの通り苦労している、人間一人の生命に関する場合に、ふざけるもいいかげんにしろ!
 勃然として怒りをなした米友が、
「先生! 起きろ!」
 右の手をかざしたかと見ると、これはまた近ごろ手厳しい、道庵先生の横っ面をピシリと音を立てて一つひんなぐりました。なぐったのはむろん米友で、なぐられたのはその師であり、主であるところの道庵先生なのです。
「あ、痛《いて》え!」
 それは多少手加減があったとはいえ、米友ほどの豪傑が、怒りに任せて打ったのですから、手練のほどだけでも相当以上にこたえたに相違ない。
 さすがの道庵先生が、頬ぺたを抑えながら、寝床の上に一丈も高く飛び上ってしまいました。
「痛え!」
「先生、冗談《じょうだん》じゃねえ、病人が出来たんだ、早く見てやっておくんなさい」
 飛び上ってまだ痛みの去らない道庵を、米友が横から突き飛ばして、押しころがして、とうとうお雪ちゃんの寝ている寝床へまで押し込んでしまって、ほっと息をついたのです。
 いかに何でも、先生の横っ面をぴしゃりと食《くら》わせるというようなことは、米友として前例のない手厳しさであるが、米友としては、安宅《あたか》の弁慶の故智を学んだわけでもあるまいが、非常時をよそにする緩慢なる相手には、こうもせざるを得なかった動機の純真さには、同情を表してやらなければならないでしょう。

         四十八

 道庵先生を文字通りに叩き起して、これを別室へ突き飛ばし、突きころばして置いて、宇治山田の米友は、自分は例の杖槍を拾い取るかと見ると、裏口から躍《おど》り立って外の闇に消えてしまいました。
 ここが米友の正直のところであり、道庵の信用の存するところであり、米友としては、こうして道庵をお雪ちゃんのいるところへ投げ込んで置きさえすれば、あとのところはもう一切心置きなしと信じていたのでしょう。自分が案内をして傍についていて、どうのこうのと言うよりは、道庵そのものを一かたまり抓《つま》み込んで置きさえすれば、それで病人に対しての万事は足りている。死ぬべきものでも、この人が生かしてくれる。いや、すでに死んでしまった自分をさえ、この先生は生かし返らせてくれているのだ。
 そこで米友は、道庵を突き飛ばして置きさえすれば絶対信任を置き得るが故に、全く後顧の憂い無くして外の闇へと身を躍らして飛び出し得たものであります。
 外の闇というのは、御承知の通り、暁の部分に属するところの胆吹《いぶき》の山麓でありました。
 けれども、その闇であることは、前に遊魂のさまよい出でた時の光景と同じことでありましたが、黒漆《こくしつ》の崑崙夜裡《こんろんやり》に走るということの如く、宇治山田の米友が外へ飛び出すと、外の闇が早くもこの小男を呑んで、行方のほどは全くわからなくなりました。
 あいにくにもこの際、この男に向っては、セント・エルモス・ファイアーというようなものも飛びつかず、ファイアーの方でも、うっかり飛びつかない方が無事だと思ったものでしょう、絶えて異象を現わすことはなかったのですから、この黒漆崑崙が、何も目的あって、いずれに向って飛び出したのだか、一向わかりませんでした。
 お雪ちゃんの部屋まで抓み飛ばされた道庵のことは暫く問わず、この闇がようやく消え去って、東方が白み渡った時分になっても、竜之助も帰らず、米友も立戻って来なかったことは事実であります。夜が全く明け放れましたけれど、ついに二人はこの館《やかた》へは戻って来ませんでした。
 しかし、朝の相当の時間になると、意外にもお雪ちゃんが起きて、窓の下の流しでしずかに水仕事をしているのを見ました。平常よりは蒼《あお》い面《かお》をして、全く病み上りの色でしたけれど、それでも立って流しもとで静かに水仕事をしている。それだけの元気があることによって、あの時の危急はけろりとしてしまっていることもわかり、それが米友の介抱の力もあり、道庵の医術のほどもありましたでしょうけれども、本来が何か突発的の急性のもので、事態の恐ろしかったほど、本質の危険なものでなかったことがわかるとすれば、とにかく一安心というものです。
 道庵は――と見れば、一方の枕屏風の中――つまり昨夜、遊魂がそこか
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