見透すようにして米友がこう言いました。
この屏風の向うに、尋常に一組の夜具はのべてあるけれども、その中はもぬけの殻だということを、米友は最初からちゃんと見抜いていたのであります。
「ちぇッ! 世話が焼ける奴等だなあ!」
なぜか、米友はこう言いつつも、お雪ちゃんの寝顔をまたながめ直した途端、
「ジュー、シープー」
という只ならぬ物音が、さいぜんのあの炉辺で起りましたので、米友がまた、とつかわと突立って、今度は、枕と、屏風と、水差とを突破して、もとの炉辺へ向って一直線に走りつけたのは、なるほどいそがしい。全く世話の焼けた話で、こちらの救急と、看護と、思いやりで手も足らないでいるところへ、あちらの一間で「ジュー、シープー」という只ならぬ物音。さながら、「雨は降る降る干物《ほしもの》は濡れる、背中じゃ餓鬼ゃ泣く飯ゃ焦《こ》げる」というていたらくです。
四十七
その「ジュー、シープー」という只ならぬ物音は、それは人間の声ではないが、捨てて置けない。こうなってみると予想しないことではなかった。つまり、炉中へかけっ放しにして置いた鉄瓶が、燃えさしの火力に煽《あお》られて、米友の不在中に沸騰をはじめ、それが下の炉炭中へたぎり落ちて灰神楽《はいかぐら》を始めたのですから、このことは人の生命に及ぼすほどのことではなかったのですが、やはり打捨てては置けない。それ故に、米友がまた忙がしく取って返し、
「ちぇッ! あっちもこっちも世話が焼ききれねえ」
米友が、その灰神楽を鎮静せしめた途端に、目に触れたのは、ついそこに太平楽で大いびきをかいている道庵先生の寝像《ねぞう》でありました。道庵の寝像を見ることは今にはじまったことではないが、この場合、これを見ると、米友がまたグッと一種の癇癪《かんしゃく》にさわらざるを得ません。
人がこうしてまあ一生懸命に――全く生きるか死ぬかで奔走している一方には、灰神楽がチンプンカンプンをはじめるという非常時に、この後生楽《ごしょうらく》は何たることだ、酔興でこしらえた創《きず》だらけの面《かお》に、大口をあいていい心持で寝こんでいる。人間、どうしたらこうも呑気に、じだらくに生きられるものか、おいらなんぞはそれからそれと夜も眠れねえで、身体が二つあっても、三つあっても、足りねえ世の中に、この先生ときては、この後生楽だ。
「畜生! どうするか見やあがれ!」
というような気にもなってみたが、そうかといって、どうすることもできない。天性、後生楽に生れて来た奴は仕合せだ、人の心配する間をぐうぐう寝ていられる、こんな奴が長生きするのだ。太々《ふてぶて》しいというのか、それとも羨《うらや》ましいというのか、呆《あき》れ返ったものだ。
今更それを考えて、米友がポカンと呆れ返っていると、その裏から発止《はっし》と思いついたのは――
何のことだ!
この先生はお医者じゃねえか!
その酔っぱらいのことばかりを考えて、ついに本業のことに思い及ばなかった。
なるほど、この先生は医者が本業である。そうして酔っぱらいが副業である。
副業としての酔っぱらいにかけては手に負えないが、本業としてのお医者様にかけては名人だ。少なくとも米友の経験する限りに於ては、起死回生の神医に近い!
この名医神医を眼前にさし置いて、何を自分が今までしていた! 何が救急だ、何が看病だ!
ほんとうに馬鹿じゃあ楽ができねえ!
と今度は米友が、自分の頭脳の足らないことと、気転の及ばないことの馬鹿さ加減を、自分で冷笑しはじめました。
最初からここに気がついていさえすれば、何を自分がお雪ちゃんをゆすぶったり、締めつけたり、口うつしに水をくれてやったり、また鉄瓶の野郎にまでチンプンカンプンを起させたりする必要がどこにあるのだ。
血のめぐりの悪い奴に逢っちゃあかなわねえ。
と米友が、またしても自分の低能ぶりを嘲りきれない語調でせせら笑ってみましたが、いつまでも自己冷嘲をつづけるのが能ではない、事の実行にとっかかるまでのことだ。実行というのは、この先生を起して、お雪ちゃんを完全に呼び生かした上に、将来の健康を保証せしめることだ。そこで米友が、物静かに道庵先生の枕許にはせ寄って、
「先生! 先生! おいらの先生! 起きてくんな」
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
「先生!」
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
「先生!」
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
再三呼んでも同じ言葉を繰返した後に、小うるさいと思ったのか、クルリと向きをかえてしまいました。詮方《せんかた》なく、米友がまた立って歩んで、そちらへ直って、さて、
「先生!」
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
「先生!」
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
「先生!」
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
やはり同一のたわごとを繰
前へ
次へ
全110ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング