》くお雪ちゃんの面《かお》を照しているものですから、それで見ると、死人同様な面の上に、ほんのこころもち、唇だけをいそがわしく動かしているようにも見える。それを見て取ると、米友が眼から鼻へ抜けました。
「うむ、そうか、そうか、水が欲しいか、水が飲みてえか、そうだろう、待ちな、待ってくんな」
 恰《あたか》もよし、枕許に水呑がある。それを、お雪ちゃんを抱きながらの米友がいざって行って、片手をのばして引寄せると、ちょっと考えて、その水呑の口をお雪ちゃんの唇のところまであてがってみたが、それではどうにもならないと諦《あきら》めると、思い切って自分の口にあてがってグッと呑み込み、
「…………」
 その口をお雪ちゃんの口にあてがって、グイグイと注ぎ込みました。普通の場合に於てこういうことはできないのです。普通の場合でなくとも、米友でなければ、こういうことを為し得ない。為し得たとしても、後に相当の誤解と羞恥《しゅうち》とを拭い去れないものが残る憂いはあるが、今の米友には、そんなことはてんで心頭にはありません。
 口移しに水を注ぎ込んだが、無論その注ぎ込んだ水の全部がお雪ちゃんの咽喉《のど》を通ろうとは思われないのですが、しかし本人も、この昏迷きわまる状態のうちにありながら、たしかに水を呑まんと欲する意識だけは動いていると見え、米友の口移しにした水の三分の二ぐらいは唇頭から溢《あふ》れて、頬と頸へ伝わって流れ去るのですけれども、三分の一程度は口中へ入るのです。そうして、そのまた幾分かが口中に残り、幾分かが咽喉を通り得るものと見なければなりません。
 米友は誰に憚《はばか》ることもなく、また憚る必要もなく、二度も三度もその給水作業を試みました。水が通じたというよりも、米友の神《しん》が通じたのでしょう、たしかに見直した、もうこっち[#「こっち」に傍点]のものだ――という希望の光が、米友の意気を壮《さか》んにしました。
「だから、言わねえこっちゃねえ」
 この時は、もう烈しくゆすぶることをやめて、寝る子を母があやなすように、米友のあしらい方の手加減が変りました。
 事実、それは米友の糠喜《ぬかよろこ》びではありませんでした。お雪ちゃんは刻々に、著しく元気を恢復《かいふく》して行くことがありありとわかります。米友はまた、片手をのばして燈心を掻《か》き立てるだけの余裕を作ってみると、その増し加えられた火花が、一層お雪ちゃんの気分を引立てたものに見せましたから、もうこっちのもの、という考えがいよいよ確実になってみると、米友としてもいよいよ米友度胸が据《すわ》ったのです。
 とはいえ、稽古半ばで落された武術の修行者が、さめると共に元気を回復して、すぐさま相手に一戦を挑《いど》みかけるというような現金なことはなく、まだ決して自分の意志を表白し得るほどの程度にも達していないのですが、もうこっちのもの、という信念を米友に持たせることに於ては牢乎《ろうこ》として動かすべからざるものがあったのですから、米友の取扱いもいっそう和気もあり、やみくもにゆすぶることには及ばない。ゆすぶってはいけないのだ、安静に寝かして置いた方がいい、もともと外部に創傷のある出来ごとではないのだし、長いあいだ病気で弱っていたという身体でもないのですから、安静にして置いて、且つ冷えないようにしてやりさえすればそれが何よりなのだ、という看護法の要領だけは米友の頭にうつって出来たものですから、そのまま後生大事にお雪ちゃんをまた元の枕に寝かせながら、
「だから言わねえこっちゃねえ、お前《めえ》、あの男にどうかされたんだろう。あの男というのは、お前が先生先生といってかしずいているあの盲《めくら》のことだ、ありゃお前、魔物だぜ!」
と言いましたが、無論まだ口を利《き》く自由さえ得ていないお雪ちゃんが、この文句を聞き取れようはずはありません。自然、米友のいうことは独《ひと》り言《ごと》になってしまっているのですが、聞かれていようとも、聞かれていなかろうとも、独り言であろうとも、相手を前に置いての独得のたんか[#「たんか」に傍点]であろうとも、米友としては言うだけのことを言いかけて、途中でやめるわけにはゆかない。
「お前はこっちへ寝て、あの男は向うの屏風《びょうぶ》の中へ寝たんだろう、まさか一緒に寝るようなことはありゃしめえ、あんな人間の傍へ近寄ろうとするのがあやまりなんだ、まあ怪我がこれだけで済んだから幸福《しあわせ》のようなものなんだ。ところで、お前が珍しがっているあの人間は、今はその屏風の蔭に寝ちゃあいめえ。なあに、そこに寝ているぐれえなら世話はねえんだ、おいらでさえ、同じ座敷に寝ていて、毎晩のように出し抜かれた魔物なんだから、お雪ちゃんなんぞ一たまりもあるもんかよ」
 あちらの枕屏風の外から、中を
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