うな》り声があるばっかりです。
「お雪ちゃん、どうしたんだってえば、しっかりしてくんなよ」
と米友は、二たび三たび抱き上げたお雪ちゃんを烈しくゆすぶりました。
 この際、米友としては、ゆすぶってみるよりほかの芸当はなかったのでしょう。事が全く不意に出でたものですから、本人をゆすぶって、本人に事の仔細をたしかめてみるよりほかには詮方《せんかた》がない。その本人にたしかめてみる以前に、本人の正気を回復さしてかからなければならない。
「お雪ちゃーん、お雪さん、しっかりしろやい」
 この烈しい米友のゆすぶりに対して、お雪ちゃんの挨拶としては何もなく、少し間を置いて、そうして恐ろしい唸りの声ばかりで、今度はその唸り声さえ漸く低く勢いを失ってきて、その身体までがみるみる弾力を欠いて、そうしてぐったり米友の身体の上に崩れかかるようなものです。
 およそ米友としては、若い娘のこういった態度を、今までにこれで二度まで見せつけられました。その一つは、申すまでもなく、本所の相生町《あいおいちょう》の老女の家で行われた幼な馴染《なじみ》との間の生別死別の悲劇がそれでありました。
 あの時は、天地が目の前ででんぐり返ったと同様で、何が何だかわからなくなってしまったが、でも、死ぬ人は充分覚悟の前であり、そうして枕許にはお松さんという日本一頼みになる人がついていて、一から十まで行届いた臨終ぶりというべきものでありました。
 然《しか》るに今晩のことは、まるっきり違う。お雪ちゃんを介抱すべく誰もいやしない。それはそのはずで、今のさきまで元気でいた若いお雪ちゃんのことだから、誰も急変を予想しているはずのものはないのに、突発的にこの急変なのです。米友といえども全く周章狼狽せざるを得ません。
 周章狼狽は極めてはいるけれども、全く失神迷乱しているわけではない。その点に於ては寧《むし》ろ相生町の時の、天地が目の前ででんぐり返って自分の立つところ、居るところがわからなくなったとは違って、何が何だか事の順序を見きわめるだけの余裕はあったのです。
 まずあの炉辺から、自在と鉄瓶とを突破して、一気にこの室へはせつけしめられた異常というのは、この室から起ったところのお雪ちゃんの異様なる叫び――ではない、唸り声がもとなのでありました。その一種異様なる唸り声を聞きつけると、米友が例の早業で、一気にここへはせつけて来ての仕事が、前いう通り、寝ている蒲団の中からお雪ちゃんの身体《からだ》を引きずり起して、両方の腕で掻抱いて、むやみにゆすぶり立てることでありました。そうして続けさまにその名を呼んで、まず正気を回復せしめて、事の理由をたずね問わんとするものでありました。
 しかし、その手ごたえがいっこう薄弱で、かえってますます消極的にくず折れて行く有様に、周章狼狽をはじめたのは見らるる通りでありますが、この非常の際にも、ただ一つ安心なのは、どう調べてもお雪ちゃんの身体の外部にいささかの損傷のないということであります。
 斬られているのでもなければ、締められていたという痕跡もないし、毒を飲ませられたという形跡もないことですから、事態はどうしても内臓の故障から来ているらしい。女子に特有な癪《しゃく》だとか、血の道だとかいったような種類、お雪ちゃんがてんかん[#「てんかん」に傍点]持ちだということは聞かないが、そうでなければ何か非常に驚愕《きょうがく》すべきことでもあって、一時、知覚神経の全部を喪失するほどに強襲圧倒させられてしまったのだろう。
 その辺にだけは辛《かろ》うじて得心を持ち得たが、事体の危急は少しも気の許せるものではありません。
 しかし、前に言う通り米友としての芸当は、烈しくゆすぶってみるよりほかには為《な》さん術《すべ》を知らない。ただ一つ知っている、それは柔術の活法から来ているところの当ての手でした。けれども、今の米友としては、その活法を、ここでお雪ちゃんに施してみようとの機転も利《き》かないほどに狼狽を極めておりました。またその機転が利いていたところで、当身《あてみ》や活法は、施すべき時と相手とがある。今この際、このか弱い病源不明の者に向って、手荒い活法を試むることがいいか、悪いかの親切気さえ手伝ったものですから、いよいよ手の出しようが無くなったのです。そこで、いよいよ深く、いよいよ強く、お雪ちゃんを抱き締めてしまって、
「しっかりしろ、お雪べえ――」
 幸いにして、ほんとに有るか無きかのささやかな希望のひっかかりを与えたのは、この時、こころもちお雪ちゃんの体の動きに少し力が見えました。
「しっかりしろ、しっかりしろよ、お雪ちゃん」
 同じようなことを繰返して、米友が抱きしめてゆすぶる間に、有明ながら行燈《あんどん》の灯は相当の光をもっていたのです。その光が蒼白《あおじろ
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