へ深夜の祈りに出かけた悪女――には、出逢うところのほどの人がみな倒れて死んだように、相当の被害が無くては納まらないほどの事態なのだが、幸いにこの奇怪な現象は、誰の眼にも触るることなしに、ある時間を限っての後、消滅してしまいました。
 が、奇怪な現象が消滅すると共に、物影そのものの姿も、尋常一様の漂浪者の姿となって残されたが、それがやがて松柏の林の中へと、暫くは身を没して現われることがありませんでした。
 しかし、また、いくばくもなくして、同じような身を登山表参道へ現わしたところを見ても、この人の四肢五体が全く無事であったことがわかり、同時にあの青い火の光というものが、決して人をそこなう力のある気体ではなかったということが、充分に証明されるのです。
 してみれば、あれはいったい何のいたずらか。山に通なる人は言う、胆吹の山には、他の山に見られない幾多の怪現象が起る――本来、胆吹のように山が独立していると、天象の変化は、他の連脈的アルプス地帯に於けるよりも一層|著《いちじる》しいものがある。例えばこの胆吹の如きは、日本本土の中央山脈とは相当の距《へだ》たりがあり、伊勢路から太平洋を前にして、後ろは日本海を背にしている。その遠近に大野があり、大湖があり、中国から内海へかけて山らしい山は無い。こういう山には、天界と、空界と、地上との現象が錯綜して起って、そうして一種幻妙不可思議な怪現象を捲き起そうということは、実に怪に似て怪ではないのです。たとえば、氷点下の山を襲って来る霧が、立っている物体にそのまま凍りついて、風の吹く反対の方へ重なり積って行き、思い設けぬヌーボー式の構造を見せると共に、普通、針金の太さを三尺にまでもして見せる霧氷というものがある。また太平洋から来る南風と、日本海から来る北風とが頂上で入り乱れて、気温が逆転し、頂上の方が非常に暖かくて、麓の方が著しく寒かったりすることもある。
 ことに、セント・エルモス・ファイアーというのは、日本に於ては、この胆吹山で発見されたのが最初だということだ。大海を航海中の船のマストの上に於てしばしば起ることのように、気象の関係で、物の尖端《せんたん》に電気を起し、青い焔が燃えさかる。しかし、この電気は、少しも人身に危害を与えることがない。
 といったような現象を考え合わせてみると、只今の怪現象も、必ずしも生身《しょうじん》の変態不動でもなければ、手品つかいのたわむれでもなかったとは言い得られる。ただ、右のような青い火の現象は、多く冬季の闇の夜の暴風の晩を以て現わるるを常とするというのに、今晩――今晩は通常の晩秋の夜気のうちなのです。

         四十二

 松柏の間をくぐり来《きた》って、春照からの表参道の大路へ通じた時、この物影はそこから爪先上りに登山路につくかと思えば、そうでもなく、ある地点でずっと横道を左へ切れてしまったところを見ると、はじめてこの物影は、誓願あっていちずに夜山をする人でないことだけがわかりました。
 そんならば、山上山下、或いは中腹のいずれに目的があって、さまよい出したのか、それも暫しは姿と共に掻《か》き消されてしまったが、また暫くすると、大平寺平《たいへいじだいら》の広場へ来て針のように突立っているのを見ました。
 動かしてみなければわからないくらいですが、杖ついた身の、針のようにそばだって立っているそのうしろは、むろん胆吹の本山ですが、前はどうでしょう、ずっと大スロープに尾を引いた浅井坂田の里を、一辷《ひとすべ》りに琵琶の湖まで辷った大景。
 琵琶湖が眼の下に胴面《どうづら》を押開いている。そうして四囲の山が赤外線で引立てたように、常日の眺めとは一層に峻厳に湧き立っているので、琵琶湖そのものが、さながらアルプス地帯の山中湖を見るように澄み渡り、このそそり立つ四囲の山々、谷々、村々、里々は、呼べば答えんとするところに招き寄せられている。
 沖の島、多景島、白石――それから竹生島《ちくぶじま》の間も、著しく引寄せられて、長命寺の鼻から、いずれも飛べば一またぎの飛石になっている。
 比良も、比叡も、普通見るところよりは少しく四五倍の高さを増して、手をつなぎ合ってこちらへ当面に向っている。堅田の御堂も、唐崎の松も、はっきりと眼の前に浮び上って来ている。
 三井、阪本、大津、膳所《ぜぜ》、瀬田の唐橋《からはし》と石山寺が、盆景の細工のように鮮かに点綴《てんてい》されている。
 針のように、そこに突立っている物影は、これらの四周の山水を見めぐらすのでなく、眼前の大スロープが湖水へ向って辷《すべ》り込もうとするある一点に眼を注いでおりました。他の部分の山川草木はすべて眠っているのに、そこばかりは夥《おびただ》しい火だ。家々の軒が火を点じているのみではない、町々、辻々には
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