多分、盛んな篝火《かがりび》が夜明かし焚かれつつあると見える。
 そのところはまさに長浜の市街地であります。市街地であればこそ、他の山村水廓とはひときわ目立って火影の赤々と輝くのは当然ではあるが、それにしても、今晩のは明る過ぎる。もし、もの日か祭礼かであるならば、それに準じての物音がここまでも賑《にぎ》やかに響いて来てよい道理ではあるが、そういうもののけはいは少しも無くて、静寂の町々辻々に篝火だけがかくも夥しく焚きなされているということは、事それが、どうしても何かの非常時を示していないことはない。
 今晩、何かあの長浜の町に於て、特に非常警戒すべき出来事か、或いはその暗示。
 突立った物影は、一心にその町一杯の火の光を見詰めたまま、容易に動こうとはしませんでした。かくばかり熱心に長浜の市街地方面をのみ凝視《ぎょうし》しているところを以て見れば、その目指すところの目的は、あの長浜の町の辻にあるらしい。
 つまり、上平館《かみひらやかた》の一間からこの遊魂は、長浜の人里を慕うて下りて行かんとしてここまで漂うて来て、ここで暫く待機の姿勢をとって、そうして、虎視眈々《こしたんたん》として、長浜の町の辻に於ける獲物に覘《ねら》いをつけていると見れば見られないこともない。
 前例によると、こういう待機の姿勢には、危険きわまりなき事変が予想される。その昔、甲府城下の闇の夜半の例を以てしても……
 さすがに長浜の町の人々はもう先刻心得たもので、それ故にこそ、あの通り昼の如く町々辻々の隅々まで、篝火を焚いている。してみると、虎視眈々たる物影も、迂濶《うかつ》には足を踏み下ろせない道理です。
 長浜の町の辻の方にばかり気をとられていてはいけない――ちょうどここに突立って虎視耽々たる物影が、最初たどって来た方面の道から、春照からの表参道を外れてお中道《ちゅうどう》かと疑われたそれと同じ道を、こちらへ向って、平和な会話の音をさせながら、たどたどと歩み来《きた》るたった一つの提灯《ちょうちん》がありました。
「お母さん、あれが長浜の町ですか」
「そうです」
「篝火が盛んに燃えていますね、あれ、陣鉦《じんがね》、陣太鼓の音も聞えるではありませんか」
「さあ、お前、あれにつれ、あんまり勇み足になってはいけませんよ、勇士はいかに心の逸《はや》る時でも、足許を忘れるものではありません」

         四十三

 その話しながら来る場所が、こちらの突立っている覆面の人に、追々近く迫って来るのです。
 こちらでは、その人の話し声も、提灯の光も、それがだんだん近寄って来ることも、先刻御承知のはずなんだが、あちらでは、ここにこの人のいることを想像だもしていないことは確かです。よし、鼻を突き合わすようなところまで近づいて来たとしたところが、闇の空気の中に、この通り覆面の異装で立っていられては、気のつくはずはないのです。こういう場合にこそ、あの先刻のセント・エルモス・ファイアーが気を利《き》かして燃え出してくれればいいのに。
 こちらは先刻承知の上だからいいけれども、先方がかわいそうです。こう飄々《ひょうひょう》と近づいて来て、提灯を持っていることだから、鉢合せまでにもなるまいけれど、まかり間違って、あの長いものの鞘《さや》にでも触《さわ》ろうものなら、いや鞘に触らないまでも、提灯の光のとどく距離にまで引寄せられて来て、ハッと気がついたのではもう遅い。
 こういう場合には、こちらに好意があらば、空咳《からせき》をするとか、生あくびをするとかなんとかして、相当、先方に予備認識を与えて、他意なきことを表明してやる方法を講ずるのが隣人の義務なのです。ところが、こちらには一向にその辺の好意の持合せがないと見え、先方は遠慮なく近づき迫って来て、光は薄いながら提灯の灯《ひ》の届く距離の間で、早くも異風を気取《けど》ってしまいました。
「おやおや、どなたかおいでなされますな」
 気の弱いものですと、この際、これだけの事態で、もう口が利けなくなって、腰を抜かし兼ねまじき場合であったのですが、先方はたしかにこちらの異風を認めて、しかとその地点に踏み止まったにかかわらず、意外なのは、それが女の声で、しかも存外しっかりして、地に着いているのはその足許だけではありません。その声だけで判断しても、しっかりしてはいるけれども女の声には相違ないが、決してお雪ちゃんやお銀様のような音調や色合の声ではありません。むしろ良妻とか、賢母とかいうべき性質《たち》の、しっかりした調子で、「どなたかそれにおいでなされますな」と言葉をかけたのですが、こちらは無言でした。こちらからすべきはずの予備認識を以て隣人の義務を果さないのみならず、先方からの挨拶にも答えないというのは非礼を極めている、というよりは、害心をい
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