ん君公を抱いて寝てやりてえ」
今度は米友が、うわごとのように言いつづけました。
「育たなけりゃいいんだ、人間てやつは、いつまでも餓鬼でいさえすりゃ、男が女を抱いて寝たって、女が男に抱かれて寝たって、何ともありゃしねえんだ――人間は育ちやがるから始末が悪い」
と言い出しました。
しかし、それは無理である。生きてる以上は育つなというのは無理です。そのくらいなら寧《むし》ろ生れるな――ということの抜本的になるには及ばない。だが、米友としては、「生れなけりゃよかったんだ、君公も、おいらも――いや、あらゆる人間という人間が生れて来さえしなけりゃ、世話はなかったんだが」という結論まではいかないで、ひときわの懊悩《おうのう》をつづけておりますと、ふっとまた一つ聞き耳を立てると、この懊悩も、空想も、一時《いっとき》ふっ飛んでしまい、思わず凝然《ぎょうぜん》として眼を注いだのが、例の、その以前から静まりきったところの納戸《なんど》の一間でありました。
四十一
しかし、今ここで勃然として気がついて、凝然として眼を注いだだけでは、米友として、もう遅かったのです。
たしかに、あの一間の中から脱け出したに相違ないと信ぜられるところの一つの遊魂が、三所権現の方に向うて漂いはじめたのは、それよりずっと以前のことでありました。
それは黒い着物の着流しに、両刀を横たえて杖をつき、そうして面《かお》は頭巾《ずきん》に包んでおりました。
この深夜、鶏は鳴いたが、闇はようやく深くなり行くような空を、またしても、時ならぬ登山者が一人、現われたと見なければなりません。
その足どりは先日、同様の夜山《よやま》をした弁信法師と同じように、弱々しいもので、十歩|往《ゆ》いては立ちどまり、二十歩進んでは休らいつつ、息を切って進んで行くのは、まさに病み上りに相違ないが、でも、何か別しての誓願あればこそ夜山をするものでなければ、今時、飄々《ひょうひょう》と出遊するはずはありません。
足どりこそ、たどたどしいもので、歩みつかれて息ぎれのする呼吸を見てもあぶないものだが、もしそれ、時とところとによっては、身の軽快なること飛鳥の如く、出没変幻すること遊魂の如くなるが――弥勒堂《みろくどう》あたりから松柏の多い木の間をくぐる時分に、これはまた、遽《にわ》かにパッと満身に青白の光が燃えついて来たのはどうしたものでしょう。
その形相《ぎょうそう》を見るに、生ける長身の不動が、火焔を吹き靡《なび》かせつつ、のっしのっしと歩み出したようなものです。ただ、その火焔の色が、不動尊のは普通の火の如く紅《あか》いが、この物影から起る猛火は青いのです。
それは青い火が後ろから飛んで来て、不意にこの物影にむしりついたのか、或いはこの物影の体内から自然に青い火が燃え出して、この雰囲気を作ってしまったのか、そうでなければその辺の焼残りの野火にでも触れて、忽《たちま》ちこんな火焔を背負わされてしまったのだか、そのことは、はっきりわからない。
最初にあの家を出る時は、証跡《しょうせき》の誰にもわからないくらいでしたから、当然こんなに火を背負って出て来たはずはない。ここまで来る途中、いつ、どこでということなく、松柏の林をくぐるかくぐりきらないうちに、この通り火の人となってしまったのですが、この火は、世間普通の紅い火のように、この人を焼く力を持っていないことは確かで、かくも全身に火を背負わせながら、その足どりとしても、息づかいとしても、従前とさのみ変ることはなく、強《し》いてわれともがいてその火を揉み消そうなんぞとしない落着きを見ても、青くして盛んなる火には相違ないけれども、熱くして人を傷つける火でないことだけは認められる。
のみならず、この物影がはっと物を踏み越えた時は、その足許《あしもと》から、木の間のさわりを払おうとして手を挙げた時は、その手先から、或いはくぐり入ろうとして傾けた頭巾の上から、つまり、全身からは全身として発火している上に、個別的に四肢五体の一部分を動かせば、その動かしたところから、青い火が湧いて出るのです。
柳川一蝶斎の一座の手妻《てづま》に、水芸《みずげい》というのがある。錦襴《きんらん》の裃《かみしも》をつけた美しい娘手品師が、手を挙げれば手の先から、足をあげれば足の先から、扇子を開けば扇子から、裃の角からも、袴のひだ[#「ひだ」に傍点]からも水が吹き出す。今ここに現われた物影は、手品つかいの芸当を習い覚えて、その伝をここでひそかに実演を試みているわけでもあるまいが、その現われたところは、まさにあれと同工異曲で、御当人はそれを気にしていないこと勿論だが、もし、他人があって、たとえば剣《つるぎ》の巷《ちまた》にある人を呪《のろ》うて貴船《きぶね》の社
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