だなあ」
と、その寝顔を見た時に、米友が改めて呆《あき》れ返るような表情をしました。
顔面部には、前にいう通りに相当の負傷をさせられていながらも、その寝顔というのは、相も変らず人を食ったものだと思わずにはいられません。
いかに疲労したにしても、この際、こうして平気で熟睡をとるのみならず、ムニャ、ムニャ、ムニャというような譫言《うわごと》を発するの余裕ある先生を、米友は呆れ返りもし、また、それとなく敬服もしているようなあんばいでした。
しかしまた米友は、自分がこの先生みたような偉人になれない如く、この先生もまた自分のような小人になれないのだ――ということをも合せ考えさせられているようです。特にここに偉人と言ったのは、人格的の内容を持った意味のものではなく、単に先生の体躯《たいく》が、自分に比して長大であるところから、これを偉人と呼び、自分の躯幹が先生に比して遥かに小さいところから見て、小人と名附けたまでのことなのです。
そこで、「ただ長酔を願うて、醒むることを願わざれ」
といったような、かなりの寛容な態度で道庵先生を扱いながら、米友は、その時に、また一つ昔のことを考え出しました。
この先生こそは、自分に比して偉人であるのみならず、自分にとっては大恩人であるということの記憶が、この際あざやかに甦《よみがえ》りました。いったい自分というものは、伊勢の国の尾上山《おべやま》の頂から、血を見ざる死刑によって、この世界から絶縁された身の上なのである。
一旦は全くこの人間社会から絶縁された身が、再びこの人間社会、俗に娑婆《しゃば》と呼び習わされているところの地上へ呼び戻されたのは、船大工の与兵衛さんのお情けもあるが、与兵衛さんは死骸としておいらを引取ってくれただけのものなんだが、その途中にこの先生が転がっていて、そのために計らずも自分はこの世界へ呼び生かされて来たのだ。与兵衛さんが身体《からだ》だけを持って来てくれ、この先生が再びそれに生命を吹き込んでくれたのだ。
あの途中、この先生がいなければ、死骸としてのおいらを与兵衛さんが、そっと持って来て、それとなくドコかのお寺の墓場の隅っこへでも穴を掘って、おいらのこのちっぽけな身体を納めてしまい、そこでおいらはもう疾《と》うに土になってしまっているのだ。だから、あれからこっち――今日までの生命というものは、全くこの先生の賜物《たまもの》なんだ。
先生のためにゃあ、生命を投げ出しても惜しくねえ――というのはあたりまえ過ぎるほどあたりまえなんだ。
米友は、いつも考えて恩に着ている通りを、今もまた思い返したのに過ぎませんが、今日は、どうしたものか、それに一歩を進めて、
「だが、人間というやつぁ、生きているのが幸福《しあわせ》か、死んでしまった方が楽なのか、わからねえな」
生死のことを考えると、どうしても米友は異体同心の昔の友を思わずにはおられません。昔の友というのは、間《あい》の山《やま》以来のお君のことです。お君を考えると、ムク――
「今ごろは、どこにどうしていやがるんだかなあ」
さすがの豪傑米友が、ここに来ると、どうしても半七さんの安否を思いわずらうようなセンチメンタルの人となるのを、如何《いかん》ともすることができない。
ああ、このごろ少し紛れていたのが、また湧き上って来やがった。
いやだなあ――
思うまいとして抑えると、意地悪く手に合わないように噴《ふ》き出して来る。
「いやだなあ――」
拝田村の村と、村の田の畦《くろ》と、畑の畔《あぜ》とを走る幼い時の自分の姿が、まざまざと眼の前に現われて来ました。
藁《わら》の上から、おいらは親というものの面を知らねえ――
あの田圃の畔を流れる川の水は綺麗だったなあ、芹《せり》が――芹が川の中に青々と沈んでいやがった。鮒《ふな》を捕ったり、泥鰌《どじょう》を取ったり……
お君ぁ、君公は子供のうちから綺麗な子だった。みんなが振返ったなあ。あいつが――あいつもお前、母親はわかってるんだが、父親というのはいったいドコの何者だかわからねえんだぜ――おいらとの間はまあ兄妹みたいなもんだが、本当は兄妹より上なんだぜ。子供のうちぁ、ふたり一緒に抱き合って藁の中へ寝て育ったんだ。子供のうちじゃあねえや、いい年になるまで――あいつが十の幾つか上になった時分に、
「もう友さん、二人で一緒に寝るのをよしましょうよ、人が笑うからさ」
とあいつが言ったから、おいら、
「うむ、寝たくなけりゃ、寝んなよ」
と言って、それっきり、二人は別々に寝るようになったんだが――いま考えてみると――米友は、何かしきりに意気込んで、眼に一種異様の光を帯びてきましたが、じっとしているうちに、涙が連々として頬に伝わるのを見ました。
「あの時分のように、藁ん中で、もう一ぺ
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