お見知り置きが願えてえ」
「ナニ、四《よ》ツ谷《や》鳶《とんび》だって――」
 無躾《ぶしつけ》に下駄っかけが頓狂声を揚げたのを、
「おお、これは、よた村[#「よた村」に傍点]の先生、よくござったの、かねて御高名は承り及びました」
 木口親分が、愛想を言って、とりつくろいました。よた村[#「よた村」に傍点]なにがしと通人が名乗ったのを、そそっかしい下駄っかけが、よつやっとんび[#「よつやっとんび」に傍点](四ツ谷鳶)と早耳に聞いてしまったのでしょう。それを取りつくろって木口親分が、
「先生、江戸はどちらでござるな」
「わっしゃあ、江戸は江戸だが、江戸を十里離れて……」
「え、江戸を十里離れて……」
「武州八王子の江戸ッ子でがんす」
「八王子の江戸ッ子……」
 一座がここで、またちょっとテラされました。江戸ッ子ということに重きを置いて、江戸はどこと聞いたら、神田とか、本所深川とか、見栄にも切り出すものと期待していると、江戸ッ子は江戸ッ子だが、江戸を十里離れた武州八王子出来の江戸ッ子と聞いて、一座が早くも興ざめ面《がお》になったのを、そこは老巧なみその浦のなめ六が、体《てい》よく取りつくろって、
「いかにも、武州八王子――あれは小田原北条家の名将の城下、江戸よりも開府が古い、なかなか由緒あるところで、新刀の名人|繁慶《はんけい》も、一時あれでたたらを打っていたことがござる」
「なるほど」
 なめ六のとりなしで、座なりが直ってくると、
「八王子は糸繭《いとまゆ》がようござる」
「織物の名所でござったな」
「お十夜《じゅうや》」
まではよかったが、
「八王子在の炭焼はまた格別な風流でござる」
「炭焼?」
「阿呆《あほう》いわずときなはれ、江戸で炭が焼けますかい」
 安直兄いがたしなめると、ダニの丈次が、
「でも、八王子在から出て来た炭焼だが、釜出しのいいのを安くするから買っておくんなせえと門附振売《かどづけふりう》りに来たのを、わっしゃ新宿の通りでよく見受けやしたぜ」
「ではやっぱり、江戸でも炭を焼くんだね」
「炭焼江戸ッ子!」
 こう言って口を辷《すべ》らしたものがあると、急に一座がわいてきて、
「炭焼江戸ッ子!」
「道理で色が黒い!」
 それをきっかけに、新来の大通人の面を見ながら、どっと一時に吹き出してしまいました。

         三十九

 ところが、通人もさるもの、存外わるびれません。
「君たち、まだ若い、そもそも武州八王子というところは、なめ[#「なめ」に傍点]さんも先刻いわれた通り、新刀の名人繁慶もいたし、東洲斎写楽も八王子ッ子だという説があるし、また君たちにはちょっと買いきれまいが、二代目高尾という吉原きってのおいらんも出たし、それから君たち、いまだに車人形というものを見たことはあるめえがの――そもそも……」
 通人は車人形の来歴と実演とを型でやって見せた上に、
「近代ではまた、鬼小島靖堂という、五目並べにかけては無敵の名人のことはさて置き、鎌倉権五郎景政も八王子ッ子だと言えば言えるし、尾崎|咢堂《がくどう》も八王子ッ子だと言えば言えるんだが、あいつぁ共和演説だからおらあ虫が好かねえ――それから学者で塩野適斎、医者の方では桑原騰庵……天然理心流の近藤三助、国学で落合|直文《なおぶみ》――」
 通人は次から次と八王子ッ子の名前を並べて、
「君たち、八王子八王子と安く言うが、そもそも八王子という名前の出所来歴を知るめえな。江戸は江の戸だあな、アイヌ語だという説もあるが、大きな川が海へ注ぐ戸口だと見てさしつかえねえ、大阪は大きな坂だよ、大きな坂だから運賃が安いか高いか、それだけのことなんだが、八王子と来ると、もっと深遠微妙《じんおんみみょう》な出所来歴がある。君たちは知るめえが、そもそも八王子という名は法華経から来ているんだぜ。法華経のどこにどう出ているか、君たち一ぺんあれを縦から棒読みにしてみな、すぐわかることだあな。ところが、ものを知らねえ奴は仕方のねえもんで、近ごろ徳冨蘆花という男が、芋虫《いもむし》のたわごとという本を書いたんだ、その本の中に、御丁寧に八王子を八王寺、八王寺と書いている。大和の国には王寺というところはあるが、八王子が八王寺じゃものにならねえ、蘆花という男が、法華経一冊満足に読んでいねえということが、これでわかる……」
 こういう説明と気焔とを聞いているうちに、一座がまた感に入りました。なるほど、この老爺《おやじ》物識《ものし》りだ、色が黒いから「炭焼江戸ッ子」だなんて言ったのは誰だ! 上は法華経よりはじめて、江戸時代の裏表を手に取るように知っている。のみならず、この当時、母の胎内にみごもっていたか、いなかったかさえわからない徳冨蘆花という文学者の文字づかいの揚げ足までもちゃんと心得ている。それか
前へ 次へ
全110ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング