だよく分明しないけれども、この際、兄いが味方のうちに、一人の有力なる江戸ッ子を欲しい、という希望を述べ出したものであることだけはわかるのです。そこで、一座のおたがいが、改めて一座のうちを見廻しました。
安直兄い――の渇望する江戸ッ子らしい、アクの抜けたのは、あいにく御同座のうちに一人も居合わさない。いずれを見ても山家育ち。よんどころなく、古川が、
「下駄っかけの兄い、お前《めえ》は江戸ッ子じゃなかったけエ」
下駄っかけの時次郎が、正直そうにかぶりを振って、
「おらあ、江戸ッ子じゃねえ、浜ッ子だ」
「浜ッ子、そいつは知らなかった、お前は江州生れだったかいのう」
と古川の英公がいう。
「なあーに」
と、下駄っかけが生返事。このところ受け渡しが要領を得ないのは、浜ッ子といったのを、古川がさし当り江州長浜ッコと受取ったものらしい。
「ちゃあ」
安直が歯痒《はがゆ》がって、焦《じ》れると、せいぜい凄味をつけた一座がテレきってしまいました。
「あの憎い憎い十八文の奴め、江戸ッ子を鼻にかけて、どもあかん。江戸ッ子やかて、わて、ちょっとも怖れやせんけどな、わて、阪者《さかもん》やによって、啖呵《たんか》がよう切れんさかい、毒をもって毒を制するという兵法おますさかい、江戸者を懲《こ》らすには江戸者を以てするが賢い仕方やおまへんか、あの十八文に楯《たて》つく江戸者、一人探してんか、給料なんぼでも払いまんがな」
安直兄いは、こう言ってまた更に一座を見廻したものです。一座の者には、よく安直の心持がわかる。
一旦は中京の地に於て食いとめようとして見事に失敗し、関ヶ原ではかえって相手の大御所気分を煽《あお》ってしまい、近江路は、草津の追分で迎え撃って手詰めの合戦、と手ぐすね引いていると、早くも敵に胆吹山へいなされてしまった――さあ、残るところは宇治、勢多の最後の戦線である。だが、この宇治、勢多というやつが、古来、西軍が宇治、勢多を要して勝ったためしが無い。よって、有無《うむ》の勝負はこの胆吹山――ここで敵と目指す道庵を、石田、小西の運命に追い込んでしまわないことには、京阪の巷《ちまた》がその蹂躙《じゅうりん》を蒙《こうむ》る。
そこでとりあえずこの場の第一線に作らせた落し穴が、下《しも》っ沢《さわ》の勘公の間抜けで、やり損ないという段取りとなり、些少の擦創《すりきず》、かすり創だけで道庵を取逃がした以上は、第二の作戦に彼等が窮してしまいました。安直が悲鳴に類する叫びをあげて、江戸ッ子、江戸ッ子と続けざまに叫んだのは、もうこの上は毒を以て毒を制するの手段、つまり、江戸ッ子を以て江戸ッ子を抑えるの手段に出でるほかには詮方《せんかた》無しとあきらめたものでしょう。
ところが――この一座に江戸ッ子が一人もいない、一座が荒寥《こうりょう》として、悲哀を感じたのはこの時のことでありました。
ところへ、どうでしょう、にわかに表の方に人のおとずれる物音あって、
「親分――兄い、変なところでお目にかかりやすが、まっぴら御免くだんせえ」
と、また一種変ったなまりの声が聞えて、襖が左右へあけられたと見ると、そこへ現われたのは、江戸相撲で三段目まではとり上げた松風という相撲上りでありました。
三十八
「おお、松風、いいところへ」
「どうして、ここがわかったエ」
「いや、道中、ちっと聞き込んだものでごんすから、多分、丁馬親分や、安直兄いもこちらでごんしょうと、わざわざたずねて来やんした」
「よく来てくれた、一人か」
「ほかに、連れが一人ごんす」
「じゃ、こっちへ通しな」
「連れて来てようごんすか」
「遠慮は要らねえ、友達かエ」
「いや、わっしの川柳の師匠でごんす」
「おや、川柳の師匠、てめえ洒落《しゃれ》たものを連れて歩いてやがるんだな」
「師匠は江戸ッ子でごんす」
「なに、江戸ッ子!」
「およそ大名旗本の奥向より川柳、雑俳、岡場所、地獄、極楽、夜鷹、折助の故事来歴、わしが師匠の知らねえことはねえという、江戸一の通人でごんす」
「そいつぁ、耳寄りだ」
「天から降ったか、地から湧いたか」
「丁馬親分――安直兄い、およろこびなせえ」
「何はともあれ、その江戸ッ子の大通先生を、片時《へんじ》も早くこの場へ……」
「合点《がってん》でごんす」
暫くあって、ひょろひょろとこの場へ連れて来られた一人の通人がありました。見受けるところ年の頃は道庵とほぼ近いし、気のせいか背恰好《せいかっこう》もあれに似たところがある。それを見ると木口親分もグッと気を入れたが、安直が思わず膝を進ませ、
「あんたはん、ほんまに江戸ッ子でおまっしゃろ」
まかり出た通人がグッと反身《そりみ》になって、
「わっしゃあ、よた村とんび[#「よた村とんび」に傍点]という江戸ッ子でげす、
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