か》んで吐き出したくなるほどの、いやな声なのですが、しかし、それは感情の問題で、事実上、一人の人間が、この石垣の下あたりの地点まで、のたりついて、進退|谷《きわ》まって助けを呼んでいることは間違いないのですから、その声の生ぬるさの故を以て、その人の生命《いのち》を見殺しにするわけにはゆかないのです。
「ちぇッ――意気地のねえ野郎だな」
内に向って怒号しきった米友が、外に向って噛んで棄てるような声。
「待ってろ、いま行って見てやるから」
寸の足りない不動は濛々《もうもう》たる火焔を抱いて、転がるようにまたも外へ飛び出してしまいました。
そうして、松の大木の根方のところから、三浦之助が安達藤三を呼び出すような恰好《かっこう》をして、そうして石垣の下を見下ろし、
「いってえ、どうしたと言うんだい、この夜中に、こんなところへのたりついて、人騒がせをやりゃあがって」
と叱りつけました。
「済まねえ――夜中にお騒がせ申して、ほんとに申しわけはねえと思うが、なにぶん、後ろには大敵、ところは名にし負うおろち[#「おろち」に傍点]の棲《す》む胆吹山――日本武尊《やまとたけるのみこと》でさえお迷いになった山なんだから、そこんところをどうかひとつ……」
「ちぇッ、生温い声をしやあがるなあ、いま縄を下ろしてやるから、それにつかまって上って来な」
「いや、どうも恐縮千万、実はね、この胆吹山へ薬草を調べに、道を枉《ま》げてやって来たものでげすが、どうもはや、慣れぬことで、道を枉げ過ぎちまったものでげすから、いやはや、あっちの谷へ転げ落ちては向う脛《ずね》を擦りむき、こっちの木の根へつっかかっては頬っぺたを引っこすられ、ごらんの通り、衣類はさんざんに破れ裂け、身体はすき間もなく掻傷、突傷、命からがらこれまでのたりついたでげす、いやはや、木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊という譬《たと》えは古いこと、薬草取りに来て、生命を取られ損ないなんていうのは、お話にならねえんでげす、これと申すも日頃の心がけがよくねえからでげす、今日という今日は骨身にこたえたでげす」
下の生温い音声を発する動物は、引きつづきだらしのない声でべらべらとこんな言葉を吐き出したのが、意外にもギックリと米友の胸にこたえました。
「おや――お前《めえ》は、おいらの先生じゃあねえか」
「おやおや、そう言うそなたの声に聞覚えがある、たしかに友兄《ともあに》いにきわまったり、友兄いとあれば天の助け、ここで会ったが百年目!」
生温い、だらしのない、歯切れの悪い上に、これはまた何というキザたっぷりの緞帳臭《どんちょうくさ》い返事だ!
三十五
ともかくも、宇治山田の米友は道庵先生を引き上げて、以前再三繰返された場面の炉辺に持って来て押据えました。
この時、お銀様の姿は、もうここには見えませんでした。奥の一間も、ひっそりかんとしたものです。
奥の一間のひっそりかんとしたのは今に始まったことではないが、お銀様のいずれへ消えたかということは、多少の問題にならないではありません。まさか、ひっそりした奥の一間の平和をかき乱さんがために、あれへ闖入《ちんにゅう》したものとも思われません。その証拠には、現に、奥の一間の平和の空気が、少しも攪乱《こうらん》されている模様のないことでわかります。
してみると、多分、あの母屋へつづく、あの廊下口から出て行ってしまったものに相違ありますまい。なるほど、そう言われて見ると、さきほど米友がお雪ちゃんの頼みで固く締切った時とは違って、戸前が少しゆるんでいる――お銀様は、たしかにあれから母屋の方へ、ともかく引上げ去ったと見るほかはありますまい。
炉辺へ持って来て押据えた道庵を見ると、これはまた、あんまりだらしがないのも、こうなると寧《むし》ろ悲惨な心持がして、米友も、腹を立てる気にもなれませんでした。
「先生、なんてザマだい、そりゃ……」
「済まねえ――」
呂律《ろれつ》が廻らないだけならいいが、身体の自由が全く利《き》いていないのです。飲み過ぎて身体の自由の利かないことは、この先生としてはあえて異例ではないのですが、今晩のは、只事ではない。全く、さいぜん生温い声で助けを呼んだ言い分と同様、衣服は裂け、面《かお》と言い、手といい、向う脛《ずね》と言い、露出したところはすり創《きず》、かすり創、二目と見られたものではないのです――でも、申しわけのためかなんぞのように、左の片手には、薬草を一掴み掴んで、放そうとはしていない。それも、やはりさいぜん、薬草をとるべく来って、道を枉《ま》げたとか、道に枉げられたとかいう、生温い声明が無ければ、米友といえども、薬草であることは知るまい。溺るるものは藁《わら》をもつかむということだから、崖をでも辷《すべ》り落ちる途
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