端に掴んだ草の根か馬の骨をそのまま、掴み通しにして来たとしか思われないでしょう。
幸いに、不幸中の幸なのです、その擦り傷、かすり創というのも大したことではありませんでしたから、米友が、手拭をお湯で絞って、少しずつ拭いてやると、ごまかしが利いてしまう。
その間も道庵は、ほとんど正気がないのです。相手が米友とは、いったん心得たようだが、それも、もう忽《たちま》ち見境いが無くなってしまったらしく、妙な手つきをして、四方を撫で廻した刷毛ついでに、米友の面を撫でてみたりして、気味を悪がらせていたが、その朦朧《もうろう》たるまなざしに早くも認めたのが、ずっと宵の口から問題になっていた、お雪ちゃんの米友のためにとて取り出して置いた夜具蒲団でした。
「占めた――もうこれよりほかにこの世に望みはねえ、世の中に寝るほど楽はなかりけり、浮世の馬鹿が起きて働く……これがこの世の後生極楽」
減らず口だけはなかなか達者で、いきなりその夜具蒲団にかじりつくと、無我夢中でそれを敷き並べ、枕を横にあてがうと、頭から夜具をかぶって――早くも鼾《いびき》の声をあげました。
「ちぇッ――いつになっても、人に世話を焼かせる先生だなあ」
手ずから夜具をひっかけたけれども、両足が蝸牛《かたつむり》の角のように突き出しているのを、米友がかけ直して、つくろってやり、そうして自分はまた炉辺へ戻って沈黙に返る時に、鶏が鳴きました。
三十六
脱線は道庵の生命である。脱線が無ければ道庵が無いというほどの事の道理を知り過ぎるほど知り、味わい飽きるほど味わわされている米友にとっては、事柄そのことは驚異ではありませんでした。ただ、脱線である以上は、どこまでも脱線でなければならないのです。脱線でも線という名のつく以上は筋道があるはずなのです。つまり脱線はいか様に突っ走ろうとも脱線であって、無軌道ではないはずです。
従来とても道庵の行動に於て、そのほとんど全部を脱線として認められてもやむを得ないものがあるけれども、これを無軌道、無節制、無道徳、無政府と見てはいけないのです。
ところが、今夜という今夜、道庵が今時分になって、胆吹の山中へ迷い込んで、命からがらの目に逢わされているということは、もはや脱線の域ではなく、無軌道の境に入っている。無軌道というよりはむしろ墜落の部に類する。つまり破天荒の行動といわなければなりません。
脱線と言い、無軌道と言ってみたところで、その行状がいかに滅茶であり、無茶であり、常軌を逸していたところで、それはまだ地上の区域に即しての行動にほかならぬのですが、墜落となってはもはや地球上の振舞ではなくして、無限の空間的行動、人類が二十世紀以後に至ってはじめて常識として受取ることのできた飛行機時代に至って、初めて現われたところの現象、でなければ日本に於ては元亨釈書《げんこうしゃくしょ》の記す時代に遡《さかのぼ》って、大和の国|久米《くめ》の仙人あたりにしか許されなかった実演、でなければそれよりさき、奈良朝時代に華厳宗《けごんしゅう》の大徳|良弁《ろうべん》僧正の幼少時代に於て現出された――それは、今般、ここらでお馴染《なじみ》になっている猛禽と同様、鷲《わし》のためにさらわれた幼児としての良弁僧正が経験した空中から地上への墜落、飛行機以前に於ても右様な実例、空中から地上へ人間が降るという右の二つの歴史に就いて考えてみましても、それは、今晩の道庵の身の上には甚《はなは》だ適切にはあてはまらないのです。道庵がまだ地上の代物《しろもの》であって、仙人の通力を授かっていないことは申すまでもないが、考証を正確にするために、ここに元亨釈書の和解の一節を掲げてみましょう。
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「久米仙ハ大和国上郡ノ人ナリ、深山ニ入テ仙法ヲ学ビ松ノ葉ヲ食シカツ薜茘《へいれい》ヲ服セリ、一旦|空《くう》ニ騰《のぼ》ツテ故里《ふるさと》ヲ飛過グルトテ、タマタマ婦人ノ足ヲ以テ衣《きぬ》ヲ踏洗フヲ見タリシニ、ソノ脛《はぎ》ハナハダ白カリシカバ忽《たちま》チニ染著《せんぢやく》ノ心ヲ生ジテ即時ニ堕落[#「堕落」はママ]シケリ、ソレヨリ漸《やうや》ク煙火ノ物ヲ食シテ鹿域《ろくゐき》ノ交《なか》ニ立却《たちかへ》レリ、サレドモ郷里ノ人モシクハ券約ノ証文ニ其名ヲ連署スル時ハミナ前仙某ト書キタリケリ……」
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右の一節と比較してみても明らかなる如く、道庵は「深山ニ入テ仙法ヲ学」ばんためにこの胆吹山に来たのではなく、「松ノ葉」を食せんがために来たのでもなく、ただ、やや類似しているのは「薜茘」をどうかしようとの学術的探究心に駆《か》られたのでありまして、久米仙あたりとは、根本的に性質と目的とを異にしている。それにです、第一、相手方の方にして考えてみ
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