同じことを言い出したわたしを、畜生だの、阿魔だの、くたばれだのと悪口雑言をなさるのがわからないじゃありませんか――わたしと寝るのがいやならば、あの奥の間の二人をどうするのですか。それがどうもできない限り、お前はわたしの頼みを聞いてくれない理由はありません。いやいや、もう今となっては、そんな生ぬるいことじゃありません、お前という人は、どうしても、わたしの命令に絶対服従から免れることじゃないのよ、友さん、わたしは、お前が好きで好きでたまらなくなった」
「馬鹿、畜生、阿魔、そんなことが聞いていられるか! どうするか見やあがれ」
「どうともしてごらん、煮るとも焼くとも、横にするとも縦にするとも、わたしの身体《からだ》を今晩は友さんに、そっくり上げるわ、好き自由に、いいようにして頂戴」
「うむ――」
「まあ、あつらえたように、そこに蒲団《ふとん》も枕も出してあるわ、あのお雪さんていう子、なんて粋《すい》の通る子でしょう」
「ちぇッ、どうするか見やあがれ、このかってえ坊[#「かってえ坊」に傍点]!」
と米友が怒罵して、ぐっと炉辺に仁王立ちになって再び叫びました、
「かってえ坊[#「かってえ坊」に傍点]!」
おそらくこれが悪罵の頂上でしょう、馬鹿と言い、畜生と言い、阿魔と言い、いずれにしても人に快感を与えるものではない、他を辱《はずか》しめると共に、自らを辱しめずには置かない非紳士的の悪態ではあるけれども、それは尋常人も、どうかすると沸騰的に使用することもあるが、かってえ坊[#「かってえ坊」に傍点]に至っては――もう頂上であり、極度であって、折助、夜鷹の類《たぐい》といえども、滅多に口にすることを恥づる冒涜《ぼうとく》の言を、米友が弄《ろう》しました。弄したのではない、この際の、彼としての憎悪《ぞうお》と、忌避と、憤怒とを最大級に表現する言葉としては、これよりほかに見出せなかったのでしょう。
そうして、ぐっと炉辺に仁王立ちになって、杖槍を八相《はっそう》の形に構えました。その形相《ぎょうそう》、米友のことだから、仁王立ちとはいうものの寸が足りない。今し、また燃えさかった炉火で見ると、赤々と照らされた黒光りの肌と、忿怒《ふんぬ》の形相、それは宮本武蔵が刻んだという肥後の国、岩戸山霊巌洞の不動そっくりの形です。
三十四
室内はこうも張りきった怒罵、悪言の真最中であるにかかわらず、ちょうどこの前後の時、一つの生ぬるい、だらしのない叫び声が、思いがけない方角から起ったのは――
「頼むよう、助けてくんなよう、人殺し――」
なんという生ぬるい、だらしのない声だろう。だが、明瞭に聞き取れる言葉そのものの綴りは、頼むと言い、助けてくれと言う。ことに、人殺し――に至っては、もう人間の危急として、これ以上の絶叫は無いのです。然《しか》るにもかかわらず、ここへ響いて来る音調は、こうも生ぬるい、だらしのない、歯切れの悪い音調なので、むしろ、人をばかにしているようにしか聞き取れない。
こんな生ぬるい、だらしのない、歯切れの悪い絶叫は、いかに九死一生の場合とはいえ、人はむしろ助けに行く気にならないで、ザマあ見やがれ――と蹴《け》くり返したくなるほどの生温《なまぬる》い、だらしのないものでありました。
「頼む、頼む、おたのん申します、男一匹がこの場に於て、生きるか死ぬか、九死一生の場合でげすから――」
ちぇッ――いよいよ以てたまらない。聞けば聞くほど生温い、だらしのない音声だ。といって、全く聞捨てにもならないのは、この深夜、胆吹山《いぶきやま》の山腹で振絞る声なのですから、わざわざ好奇《ものずき》に、こんなところまで、こんなだらしのない絶叫を試みに来る奴があろうはずはないのです。
では、狐か、狸か――しかし、今時の狐や狸は、もっと気の利《き》いた声色を使う。いったい何者だ!
たとい生温いとはいえ、だらしがないとはいえ、歯切れが悪いとはいえ、その音色に危急存亡の声明とはハッキリとしていて、またその響き来《きた》った方角というのも、この館《やかた》の出丸の直下、石垣が高く塁を成して積み上げられている根元から起って来たのはたしかなので――それ、また続いて聞える、
「誰かいねえのかね、男一匹が、ここで生きるか死ぬかの境なんだから、どうか助けておくんなさい、この上の火の光をたよりにここまでこうやって、のたりついたところなんでげすから――どなたか起きて、ひとつ助けておくんなさい、後ろには大敵を控え、前には絶壁、全く以て、男一匹が生きるか死ぬかの境なんでげすから――」
続けざまに起る救助を求むるの声、なんてまた生温《なまぬる》さだろう、男一匹が生きるか死ぬかの際に、こういう声を出すくらいなら、黙って死んでしまった方がいい。勝手にしやがれと、噛《
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