した。しかしこの家の構えに於ては、表も裏も、そう近い距離では、米友の身体《からだ》で一っ飛びに飛びさえすれば、裏は直ちに表になり、表は直ちに裏返すことができるのですから始末はいいのです。それと、なお都合のよいことは、ただいま確認したその怪しい者の人影――たしかに人間の影法師には相違ないが、それが何者であって、何しに来たかということまでは確認していないのですが、それが人間の物影であることだけは確実に認めたし、苟《いやしく》も人間の物影である以上、深夜この辺の、しかも我々の新たに移り住んでいることを知らないはずのない怪しい奴が忍び寄っていると、こう断定しないわけにはゆきません――その怪しい奴も、やっぱり軒を南へ廻り込んだのだから、当然、自分が履物を求めようとする裏口の方へと姿を移したのです。してみると、自分が表口へ飛びうつって、履物を突っかけてあちらから外へ飛び出すと、かえって幸いに、その怪しい奴と鉢合せをするかも知れない――得たり賢しと米友が、その通り実行を試みました。
前庭の方、すなわち、鷲《わし》の子を解放して親鷲を喜ばせてやったり、その揚句、いい気持になって川中島の二の舞に陶酔したりなんぞして、さて家の中へ舞い戻ろうとした途端の鼻をギョッと白まされたあの剃刀使い、要するに、あの戸口の戸を、もう一度また内からがらりとあけて、そうして、米友が身構え充分に、やにわに広庭へと躍《おど》り出した途端、果して鉢合せ――
「友さん」
「お前《めえ》」
果然、そこで鉢合せが起ってしまいました。しかも、鉢合せをした当人よりも、合わされた米友公が、またしても泡を食わされてしまったのは、返す返すも今晩は、米友の売れない晩であるらしい。
「友さん」と言って、出合頭にそこに立っていたのは即ち、最初から米友が咎《とが》めきっていた怪しい物影、人間であるには相違ないが、その家の周囲をうろつき、軒下を走り、或いは塀の下に彳《たたず》んで、ためつすがめつしていたことらしい証跡の充分にある、その怪しい奴から先《せん》を取られて声をかけられてしまいました。
そうして、米友が「お前」と言ったきり立ちすくみになったのは、予期したとは全く番狂わせの立合であったからのことで、すなわち、この怪しい人影はお銀様であったのです。そうして、怪しい人影の、怪しいことを睨《にら》んだ点に於てはいささかも誤認はなかったけれど、まさかお銀様であろうことを、米友が睨み足りなかったことに起ったこの場の番狂わせ――
三十一
「友さん、入ってもいい?」
とお銀様から言われて、米友が、
「うむ」
と答えざるを得ませんでした。
米友としては完全なる拍子抜けです。拍子抜けというよりも力負けなんでしょう。立合で言えば全く気合を抜かれてしまったのですから、技《わざ》も、力も、施す術《すべ》がないので、相手にイナされようとも、突き出されようとも、御意《ぎょい》のままなのです。
そこで、当然、お銀様が米友をリードしてしまって、進んで例の戸口から、この家の中へ大手を振って――暴君とは言いながら女のことですから、形式に於て大手を振るような振舞はなかったけれども、ずっとその昔、本所の弥勒寺長屋で米友から、厳しい咎めだてを蒙《こうむ》りながら、ついに屈することを為さなかった、覆面のまま人の座敷へ進入する、その傲慢無作法だけは今晩も改めないで――ずっと座敷へ、以前、お雪ちゃんも坐り、奇怪千万な剃刀の使い手も坐り、現在は米友が快く夜船を漕いでいた当時の炉辺へ来て、然《しか》るべきところへお銀様が、米友に先立って座を占めてしまいました。
おぞましくも、米友はそれにリードされたのみならず、弥勒寺長屋の時のように、たんかをきって、それを咎めだてすることをさえ為し得ず、唯々《いい》としてお銀様に導かれて、自分も、さいぜんの夜船の座に直りました。
これは、いかに米友理窟を以てしても、ちょっと文句がつけられないのです。というのは、傲慢であろうとも、無作法であろうとも、ここに鎮座し給う覆面の女将軍は、まごう方なきこの地方の新領主であることを、米友の理性が許しているから、自然、この家の軒下であろうとも、縁の下であろうとも、竈《かまど》の下であろうとも、この女人の王土のうちでないということは言えない。してみれば晴天であろうとも、深夜であろうとも、王者が王土に親臨し給うことに於ては文句がつけられない。我々は、たとい王臣というものでないとしても、その王土の中の一種のかかりうどなのだ。
そういう理解の下《もと》に、多分、米友はその王者の傲慢無作法を許していたのだろうと思われます。
「友さん、今晩、わたしを此家《ここ》へ泊めて頂戴な」
充分に座が定まってから、女王の第二段の勅命がこれでありました。
「う
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