て、戸外の軒の下の方に注ぎました。
戸外の軒といっても、それは、さきほど米友が自己陶酔を演じた松の大木の根の下の芝生の方向ではないのです。それとは全く反対の、胆吹山の山腹に向っての方の裏手の一方でありました。
ついに、米友が炉辺を立ち上りました。無論、ただ俄然として驚き醒めただけでは安心が成り難いから、それで卒然として立ち上ったものですから、その手に例の唯一の得物《えもの》を放すことではありません。
流しもとの引窓のところまで行って、米友は、そっと窓を引いて外を見ました。引窓を引くといっても、これは南方十字兵衛があやつったような通常屋根の上に取りつけて、下から縄で引いて息抜きをするところの引窓ではなく、壁の一部を打ちぬいて、それに小割板を二重に取りつけ、べっかっこう[#「べっかっこう」に傍点]の形にして、引けば開く、押せば閉づるだけの単純な仕組み、大工さんのテクニックで言えば無双窓、くわしくは無双連子窓《むそうれんじまど》というあれなんです。風を避けるためには、通常その外側の方へ障子紙を張って、単に明り取りだけの用に供しているが、ここではまだ、紙を張ってしまうほどの時間が無かったために明戸《あきど》になっていることを心得ていたから、米友が、そっと引開けて、外をのぞいて見たのです。引きあけて見て、外が月の夜であることを知りました。
月の夜といっても、この巻の初めの名に冒すところの「新月」の夜ではありません。三日月の晩でもなかったのです。当代のある人気作者が、東の空を見ると三日月が上っていたとか、いなかったとか書いたそうだが、新月とか三日月とかいうのは、どう間違っても東の空には現われないものなのです。少なくとも、この日本の国土で見得る地点に於ては……
ですから、この深夜に、窓を推《お》すと、颯《さっ》と野外に流るる月の色は、新月でも三日月でもないにはきまっている。では、何月の何日の何時何刻の月かとたずねられると、正直な米友が、きっと狼狽《ろうばい》して吃《ども》り出すに相違ない。
ですから、ここのところは、そう正直な人間を追究しないで置いて、単に、窓を推して見ると、胆吹の山村は一帯に水の如き月色が流れている、ということで不詳していただきましょう。
もとより、連子形の飛び飛びの空間から、視野をほしいままにするわけにはゆきませんが、さっと窓を開いて、そうして、流れ渡る月光の外野を見ると、特に何物をか、しかと認め得たというわけではありませんが、なんとなく、いよいよ米友をして安心せしめざるところのものがある。
そこで、また眼をこすって、いきなり立戻って今度は、裏口の、つまり、その家からいえば非常口といった方面です、そこに一間間《いっけんま》だけの戸があって、心張棒《しんばりぼう》で塞《ふさ》いである、その心張棒を米友が外《はず》しにかかりました。心張棒を外から外すことは、かなり難儀な仕事だが、内から外す分には何の事はないのです。
それを外して、戸をがらりとあけて見ました。これは連子窓から見た棒縞形の世界とは違って、胆吹のスロープを充分に視野に取入れて、そうして、まぢかくはこの家の軒下をずっと見通し――果して、その軒下の南へ廻る角のところに、怪しい者の姿を米友がしかと認めて、思わず力足、例のじだんだの一種類ですが、ここは板の間の上ですから、じだんだとは言えない、床だんだとか、木だんだとかいうのが正当かも知れないのですが、「曲者《くせもの》見つけた!」というような気合で、米友が小躍《こおど》りしてみたのですが、その見つけられた怪しい者は、米友が動いたほどには動きませんでしたけれども、それでも、誰かに見咎《みとが》められたと感づいたものか、静かに軒をめぐって、姿を隠してしまいました。それは尋常の者ならば認めきれないほどの、かわし方でありましたけれど、相手は宇治山田の米友でした。
彼は、それだけで、たしかにこの家の外に今まで立っていた人がある、そうして、この軒下、雨だれ伝いに、すうーっと走って行ったことも確かである、どの地点に何時間立っていたか、或いは、ここまで新参早々で軒下を走ったものだか、その辺は明瞭《はっきり》しないが、たしかにこの家のまわりを、うろつく人影があったことを、米友は確実に感づいたのみではない、確実に認めたのだから猶予はなりません。
といって、ここから直接に飛び出すのは無謀です。第一、地の利もよくない上に、履物《はきもの》がないのです。さすがに武術の心得があるだけに米友は、地の利と足場とを無視してかかるような無茶な振舞はしない、いかに心は慌てても。
飛び出すにしても、草履《ぞうり》をはかなければならぬと考えました。考えると共に、ここには草履が無い、表口まで行かなければ、それを足にすることはできないと覚りま
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