した。一時は、ちょっと変な感じにうたれたに相違ないが、もう、こんなことにはタカをくくってしまって、彼の頭は全く別の世界の追憶やら、想像やらがとめどなく流れ込んで来て、その応接に苦しんでいるものらしい。
 たとえば、鷲の子を放してやったことの連想から、尾張へ預けて来た熊の子のことになってみたり――川中島の夜景の思い出から、道庵先生のことになってみたりしてるうちに、この男が炉辺でうつらうつらと居眠りをはじめてしまったことによっても、この場の出来事には、あんまり邪気をさしはさまず、また、先刻、庭前で試みた懸命の型の遊戯が、かなりこの男を疲らせていると見えて、かなりいい心持で、炉辺の温い火にあおられながら、夜舟を漕《こ》ぐというのですから、まず極めて平和なる光景と言わなければなりません。
 本来、居眠りをするということは、心のゆとり[#「ゆとり」に傍点]というよりも、油断と言った方がよろしい。
 ことに日本の炉辺では、居眠りをすることは非常に危険なる油断の一つに数えられている。なぜとならば、ここで一歩、ではない、一頭をあやまると、目前は火炉なので、その上には※[#「金+獲のつくり」、第3水準1−93−41]湯《かくとう》が沸いている。よく昔の田舎《いなか》の子供は、この炉辺でいい心持で居眠りをしていたために、一頭をあやまって、烈々たる炉中へころがり込むと、待っていたとばかり、上から鍋なり鉄瓶なりの熱湯がたぎり落つる。そこで肉身を烈火で焼いた上に、熱湯で仕上げるという念入りな結果になって、一命を亡ぼすか、そうでなければ一生を見るも無残な不具として棒に振らなければならない。米友ほどの緊張した男が、そういう危険な状態に身を置くことは不覚千万のようだけれど、また、見ようによっては、この男なればこそで、どう間違っても、ざまあ見やがれ! とドヤされるような醜体を演ずることのないのは保証してもよろしいでしょう。いや、改まってそんな保証をするまでもなく、この男としては今日まで、一定の寝室と、一揃いの寝具によって一夜を御厄介になることよりも、居たところ、立ったところが、随時随所に、坐作《ざさ》寝食の道場なのだから、※[#「金+獲のつくり」、第3水準1−93−41]湯炉炭《かくとうろたん》の上に寝ることも、平常底《へいじょうてい》の修行の一つと見てよろしいかも知れません。
 とにかく米友は、ここでいい心持に舟を漕ぎはじめたことは事実なんだが――それにしても奥の一間は……

         三十

 奥の一間のことは問題外として、白河夜船を漕いでいた宇治山田の米友が、俄然として居眠りから醒《さ》めました。
 それは、たしかに、たった今、軒を伝うて颯《さっ》と走ったものがあったからです。
 つまり、今時《いまどき》、このところを走るべからざるものが走ったから、それで米友が俄然として眼をさましたのです。走るべきものが走ったのならば、米友といえども、こんなに慌《あわただ》しく居眠りから醒めるはずはありません。
 しからばこの際、このところを、走るべきものと、走るべからざるものとの差別は如何《いかん》――これはむつかしい。
 天地間のことだから、いつ何物が、いずれより来《きた》っていずれへ走り去るか知れたものではない。現にこの胆吹山にも、相当の飛禽走獣がいるに相違ない。猛禽はさいぜん、子を索《もと》め得て、かの古巣をさして舞い戻ったが、そのほかに地を走る狐兎偃鼠《ことえんそ》の輩《やから》もいないはずはない。それらのものが深夜、軒を走ったからといって、さのみ驚くには当らないでしょう。だがまた、不意に走って人を驚かすものは、空中の鳥類や、地上の走獣とのみ限ったわけのものではない。天空を見れば、不意に星の走ることがある。
 流星或いは「抜け星」といって、その地球全面に現われる類《たぐい》でさえも、一昼夜に一千万乃至二千万に及ぶとのことだから、それをいちいち驚嘆していた日には際限のないことです。
 しかし、いずれにしても、それは飛ぶべきものが飛び、走るべきものが走ったのであって、そちらは天上、空中、野外、時としては軒をかすめて飛ぶことはあっても、こちらは、木処水上以来、何千年の経験を積んで、そうして構え上げた人間の住居の中にとどまっているのだから、そう慌しく驚起しなければならないはずのものではないのです。まして、宇治山田の米友ほどの剛の者が、俄然として驚き醒めねばならぬほどの、非常なる産物ではありません。
 そこで、また当然、米友が俄然として驚き醒めたということの裏には、走るべからざるものがあって、この軒下を走ったという第六感か七感か知らないが、それに働きかけられたために起ったのです。かくて俄然として驚きさめると共に、その眼は例の如く、その手は早くも杖槍の一端にかかっ
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