時に、ちらりと見えたあれなんだ。あれを出して引っかけて、そうして悪く落着きすまして面《かお》を撫でているという現象が、この男を理解しきっている米友にも不思議でならなかったのです。あんまりそれが不思議だものだから、米友は他の何事をも想いわたる隙がなく、竜之助の面ばかり見つめていると、
「米友さん、あなた、さっき、外で何をしていたの」
今ごろになって、それはお雪ちゃんの声ですから、これにも米友が面くらわないわけにはゆきません。
どこで、どんな面をして、今ごろこんなことを言えたものかと、振返って見直すと、納戸《なんど》のしきりからたしかに半身を現わしたお雪ちゃん――
にっこり笑ってこちらを見ている面が、薄暗い光の中に、いやに艶《つや》っぽい。
「お雪ちゃん、お前こそ、どこで何をしていたんだ」
「わたし……」
「お前がいたのか、いねえのか、おいらは今まで気がつかなかった」
「先生がおいでになったものですから……」
「それからどうしたんだ」
「いろいろと……」
「いろいろと、どうしたんだ」
米友は、いつになく険《けわ》しく眼を光らせてお雪ちゃんを見つめて、何事をか詰問するような調子に響きます。
「ねえ、米友さん、今夜、ここへあの方をお泊め申して上げましょう、いいでしょう?」
お雪ちゃんの言葉が、妙に甘ったるい。
「ははあ、読めた!」
と米友が、けたたましく叫んで、竜之助とお雪ちゃんの面を忙がわしく等分に見比べようとしました時、何に狼狽《ろうばい》してか、お雪ちゃんの面が真赤になった――少なくとも真赤になったような感じ――それと反対に、面を撫でている竜之助の面がいよいよ蒼白で、嘲るような皮肉さえ交えて見え出してきました。
二十九
「先生、こちらへいらっしゃいよ」
と、お雪ちゃんは竜之助の方を向いて言い、それから米友に対して、
「友さん、奥のお座敷をこしらえて置きましたから、あちらへ、このお方をお泊め申して上げましょう」
と、二人に向って同時に物を言いかけました。
「勝手にしろ」とも米友は言いませんでした。今まで姿を見せなかったのは、つまり、この不時の珍客のために、奥の座敷に手入れをして、請《しょう》じまいらすべき室をしつらえていたのだ。
「友さん、そうして、あなたは、どこへお寝《やす》みになるの」
とお雪ちゃんが、まだ立ちながらの半身《はんみ》で言う。米友はそれに答えました。
「おいらよりか、お前はどこへ寝むんだ」
「わたし」
とお雪ちゃんは、あんまりわるびれずに、
「わたしは、あちらで、先生のお傍へ寝ませていただきましょう――その方が、何かにつけて……」
「うむ」
と米友は火箸をいじりながら頷《うなず》いて、
「おいらは、ここでいい」
「では、ここへお蒲団《ふとん》をこうして置きますから、友さんの好きなところへお寝みなさいな」
「うむ」
「先生、こちらへいらっしゃい」
お雪ちゃんはするすると歩いて来て竜之助の手をとって、抱えるようにして奥の座敷の方へ、畳ざわり静かに歩んで行くのです。
無論、その時には、竜之助の方は面も一通り撫で終って、剃刀も手さぐりで箱の中に納めてしまい、軽く立ち上ると、一方の手はお雪ちゃんに与えて、そうして、一方では刀を提《さ》げて、するすると奥の間の方へ消えて行ってしまいました。
あとを見送った米友は、ふーむと一つ深く鼻息を鳴らして、そうして、そこはかとなく四辺《あたり》を見廻したものです。
さきほどまでの、先へ寝むの寝まないのという仁義と遠慮とが、ここでは全く問題になりませんでした。
お雪ちゃんは、奥の間に不時の珍客を案内したままで、ここへ戻って来ない。
早手廻しといおうか、米友のためには、そこへ寝具が用意してある。その寝具がお雪ちゃんに代って物を言っている。
「わたしたちは、あちらで寝みますから、友さんはここでお寝みなさい」
その時、米友が、一つのびを打って、
「ばかにしてやがら」
と言いました。
奥の座敷の方は、人が入って行ったとも見えない静かさです。
屋の棟には猛禽《もうきん》の叫びもなく、籠の中には鷲の子のはばたきもありません。胆吹山の山腹の夜は、更けきっている。
米友は炉中に三本の薪を加えました。
寝具にはあのとき一瞥《いちべつ》をくれたままで、もう見向きもしないが、薪を加えた炉の火が赤々となったのを無意識にながめているうちに、真黒な南部の大鉄瓶が、ふつふつと湯気を吐き出したのを、うっとり見入って、米友の頭には、また何かしら考えさせるものが流れ込んで来たらしい。
だが、この男が、その時、打って変ったお雪ちゃんの挙動に対して、なんらか嫉妬《しっと》に似た不快な感情を刺戟され、それがために多少やけ気味で、ふて返っているのかと見ると、それは大きな誤解で
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