ものか。では、寝たのか。あれほど先に寝《やす》むことを遠慮していた当人が、だまって寝込んでしまうはずもなかろうじゃないか。してみると、また一人おとなしく銭勘定でもはじめたのかな――それにしても変だ。
という気になって、米友が、のぞき込むのを先にするようにして座敷へ一足入れて見ると、行燈《あんどん》の光が著しく暗くなっているが、消えたのではない。ここまで来ても、お雪ちゃんが何とも言わない、そうして、お雪ちゃんその人の影も見えない。
「おや?」
米友は忙《せわ》しく座敷の四方を見廻したけれど、お雪ちゃんの姿はいっこう見えないが、その薄暗い行燈の光を通して、燃えくすぶって白い煙をたなびかせている炉辺の彼方《かなた》に人がいる。一見、お雪ちゃんとは全く別な人間が一人、澄まし込んで座を構えている。
「お前《めえ》は誰だ!」
と米友が、目を円くして一喝《いっかつ》しましたが、先方から手ごたえがありません。
返事はないけれども、人はいるのです、姿は動かないのです。そこで、米友は円くした眼を据えて、じっと、その薄暗い行燈の光と、白くいぶる榾《ほた》の余烟《よえん》とを透して見定めると、蒼白《あおじろ》い面《かお》をしてやつれきった一人の男が、白衣の上に大柄な丹前を羽織って、火の方に向きながらしきりに自分の面を撫でている。最初はただ面を撫でているだけだと思ったが、その指先が長くヒラリヒラリと光るものだから、よく見ると、剃刀《かみそり》を使っているのだということがわかりました。
つまりこの人は、澄まし込んで、ここで面を剃っているのです。
「お前は誰だ」
と二度《ふたたび》誰何《すいか》した途端に、米友は先方の返事よりも早く、自分の胸に反応が来てしまいました。
「なあんだ、お前《めえ》か。お前はいったい、どこにいたんだ、そうして、いつ、こんなところへ入って来たんだえ」
「雨戸があいているから、そこから入って来たよ」
「どこから?」
「君が出入りをした同じところよ」
「エ、ここからかい、ちっとも知らなかった」
これだけの問答で、米友は怖るるところなく、ずかずかと炉辺によって来て、その不思議な来客と対角の炉辺に座を占めてしまいました。
この不思議な来客というのは、米友とは古い顔馴染《かおなじみ》、最近関ヶ原以来の――机竜之助であることに疑いはありません。
二十八
竜之助と対角線に坐った宇治山田の米友は、無言でじろりじろりと竜之助の為《な》さんようをながめておりました。
普通の人ならば文句もあるだろうが、本所の弥勒寺長屋《みろくじながや》以来、この人をよく知り抜いている米友です。
天から降ったか、地から湧いたか、現在この座敷の締りは先刻、お雪ちゃんから念を入れての頼みで、水も洩らさぬように締切ってある。入って来たとすれば、戸の隙間《すきま》か、節穴よりするほかには入り道は無いのです。いや一つはある。それは、自分がさいぜん籠を持ち出してから、自身庭へ出て、槍を振っていた間の、あの縁先の雨戸一尺五寸ばかりの間隔だ。しかし、それとても、直ぐその直前で自分が槍を振っていたのだから、取りようによっては、締めきってあるよりも一層の厳しい見張りになっているはずなんだが――そこを潜り抜けて、そうして安然とここへ座を構え込んでしまって、しきりに面を撫でている。
これは、他人《たじん》ならば米友自身の面目問題なのだが、この人では仕方がない――と米友は観念しているらしい。弥勒寺長屋で一つ釜の飯を食っている時にさえ、出し抜かれたのだから、今宵この場合は、型に心を取られていたおいらだ――油断といえば油断だが、寝首を掻《か》かれたわけではなし、特にこの人は例外である。
米友も、そういう頭が出来ているから、深くはそのことを気に病まないでいたが、解《げ》し難いのは、その面を撫で廻す指先に光る剃刀と、それから、なおよく見ると、その座右に置いてある櫛箱《くしばこ》です。それもこれも――この男がわざわざ持って来るはずはないと咎《とが》めるまでもなく、常日頃、米友がよく見慣れているお雪ちゃんの持物なのであります。
いつのまにこの人は、これを持ち出したろう。閃々《せんせん》として波間をくぐる魚鱗のように、町々辻々の要所要所をくぐり抜けて血を吸って帰るこの人の癖は、米友に於てもよく心得たものだが――いかに潜入が得意の人とはいえ、はじめての室内へ入って来て、櫛箱と、剃刀と、それから、なおよく見給え、ちゃんと下剃《したぞり》を濡らすためのお湯まで汲みそろえてある。こういう細かい芸当までが、できるということは、あり得べからざることだ。
ことに、うしろにふわりと羽織っている丹前だってそうだ。さきほどお雪ちゃんが、蒲団《ふとん》をのべようと言って、戸棚をあけた
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