丸の松の根方の芝生の上で、真剣になって型をつかいました。川中島の時は、たしか月の夜でありましたが、ここは、おろちの棲《す》む胆吹山下、降るような星の夜であります。
今、米友が縦横無尽にその型をつかい出しました。
それは何の型? 御承知の通り、この男には特に何流何派の型というのは無いのです。幼少の頃、淡路流を少し学んだということのほかには師に就いたことはないが、その後、おのずから独流の型は出来ているのです。本人はそれを型とは気がつかないで、ひとり自己陶酔で、舞いつ踊りつしているようなものだが、見る人が見ると、その奇妙きてれつなる、型にあらずしておのずから型に合っている。ただ惜しいことには、見る人に見せる場合にのみ、この男の芸術的昂奮が起らないことです。無心したところで見ようとしては見られず、無心しなくても突発的に、川の中であれ、山の下であれ、起るべき時に起るその芸術的昂奮と自己陶酔――当人が見せようと思ってやるわけではないから、周囲が見ようと願っても見られない代物《しろもの》。
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「一ハ打《だ》シ、一ハ刺ス、棒ニ刃《やいば》ナクンバ何ヲ以テ刺スコトヲ為《な》サン。
今一刃ヲ加フ、但シ刃長ケレバ則《すなは》チ棒頭力無シ、他ノ棒ヲ圧スルコト能《あた》ハズ、只二寸ヲ可トス、形|鴨嘴《あふし》ノ如シ。打スレバ則チ棒ヨリモ利アリ、刺ストキハ則チ刃ヨリモ利アリ、両《ふたつ》ナガラ相済《あひすく》フ、一名ヲ棍《こん》ト曰《い》フ、南方ノ語也、一名ヲ白棒ト曰フ、北方ノ説也。
孟子|曰《いは》ク、梃《てい》ヲ執ツテ以テ秦楚《しんそ》ノ堅甲利兵ヲ撻《たつ》スベシ……」
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米友としては、前人の型を追わない如く、前人の説を知らないのだから、独得の武器そのものも、暗合はあるかも知れないが、模倣は断じてない。
さればこそ、この自己陶酔によって示すところの型のうちに「大当《だいとう》」の勢いが現われようとも、「斉眉殺《せいびさつ》」の型が転がり出そうとも、「滴水」が「直符」に変化し、咄嗟《とっさ》に「走馬回頭」の勢いに転じようとも、進んでは「鉄牛入石」の型が現われ、退いては「竜争珠《りょうそうじゅ》」の曲に遊び、或いは「鉄門※[#「金+俊のつくり」、306−14]《てつもんせん》」となり、或いは「順勢打」となり「盤山托」となる。一肌一容《いっきいちよう》、体をつくし、研を究めようとも、彼は学んで而してこれをなし得るのではないから、示して以て能を誇るのでもない。況《いわ》んや衒《てろ》うて以て剽《ひょう》するものでないことは勿論である。
今や米友は、むやみに愉快でたまらなくなりました。無論、時間のところも頓着はありません。それも全く無理のないことで、人はそれぞれその楽しむところに於て三昧《さんまい》に入り得る特権を持っているのですから、この男が唯一の芸術に、我が三昧境に、我を忘るるはやむを得ないことですが、ただ一つ他目に見て不思議なことは、お雪ちゃんというものが、その後、なんらの挨拶をしていないということであります。
「友さん、何をしているの、イヤな友さん、一人相撲の真似《まね》なんか、およしなさいよ」とかなんとか、呼びかけなければならないところなのですが、米友が陶酔境からついに三昧境に入るまでのかなり長い時間を、悠々とここにひとり遊ばせて置いて、お雪ちゃんその人がなんらの注意を呼び起していないということが不思議でした。
そのうちに米友も、夢からさめたように三昧境を出でるの時が来て、ホッと息をつくと、杖を松の樹に立てかけて、錬鉄の肌ににじむ玉のような汗を、腰にブラ下げた手拭で拭いにかかり、
「うんとこ、とっちゃん、やっとこな」
と言いました。
どこで聞き覚えたか知れないが、こんなわけのわからぬ言葉を口走る点は、たしかに幾分清澄の茂太郎にかぶれたものなんでしょう。
そこで、沓《くつ》ぬぎに草履《ぞうり》を脱いで、以前の座敷に上り込もうとしたが、ふと妙な気配を感じました。
二十七
「お雪ちゃん」
当然、先方から呼びかけられなければならないところで、米友の方でダメを押しました。
なるほど、自分ながらそう思って見れば、自分としてはかなり長い時の間、遊戯を試みていたのだが、その間、お雪ちゃんはどうした。こっちはこっちで楽しんでいたんだからいいようなものの、先方の身になってみると、「米友さん、何をしているの」と一言、たしなめてみてもよかりそうな場合であったではないか。
お雪ちゃんが、今まで何とも言わなかった、あの子のことだから、いるんなら何とか言ってくれなけりゃならぬ場合なんだが、いっこう挨拶がないところを以て見ると、いないのかな。
いないといったところで、今夜この場合、どこへ行く
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