友はついに、籠を戸外の縁側へ押し出してしまいました。取縋《とりすが》ってみたところで、お雪ちゃんの力では、米友の地力を如何《いかん》ともすることができません――だが、目に見えないあの暴君タイプのお嬢様の圧力が、この時も、うしろからひしひしとお雪ちゃんの背中に迫るように感ずるのに、米友は一向その辺になんらの気兼ねを持たないらしい。事実、今の世に、お銀様を恐れない人は、この男一人かも知れません。あの暴女王をつかまえて、目の前でポンポン争い得るものは、まずお雪ちゃんの知れる限りでは、この米友さんのほかにはないらしい。そうして、多くの人が、腫物《はれもの》にさわるように、あしらい兼ねている前で、つけつけと物を言って、自分も更に憚《はばか》るところはないし、第一、当の暴女王その人が、黙ってこれを聞き流しているのみか、烈しく当られて、かえって暴女王が面《かお》をそむけて、米友の鉾先《ほこさき》を避けようとすることさえあるのを見受けるのです。
米友はついに、後ろへ向けた籠の戸を充分にあけ払ってやると、はばたきをして、丸くなって、外の闇へ躍《おど》り出してしまった鷲の子。
その途端に、さわがしい羽風を切って松の枝下から、ある程度まで舞い下ったらしい大鷲――それと迎合しようとして、まだ脾弱《ひよわ》い羽をのして、空中に向ってはばたきをする子鷲――
やや暫く、空中と地上との闇の宙宇《ちゅうう》で、二つの鷲が舞いつおどりつしていたもののようであったが、やがて、のしきった羽風の音が、胆吹山の山上へ向って真一文字にうなり出すと、それで、さしもの動揺が全く静まり返ってしまいました。
つまり、解放された子鷲は、親鷲にすがり、取戻しに来た親鷲は、首尾よく捕われの子を拉《らっ》し得て、翼の上に載せたか、爪でかき提《さ》げたか、暗いからその細かいことはよくわからないが、完全にわが子を取戻して、そうして親子は夜空に羽風をのしつつ、古巣をめがけて飛んで行ってしまったことは確実なのであります。
その時、米友は庭へ下りて、松の丸の大木の根方に立って、鷲の飛び去った方の胆吹山の空をのぞんで突立っていました。
宇治山田の米友は、こうして、しばらく空をながめて突立っていましたが、なんとなく名状し難い、一種の空虚な感じが頭の中にわいて来て、たまらなくなったものと見え、松の根方に、またも二度三度、じだんだを踏んで、
「ばかにしてやがら」
と言いました。
「ばかにしてやがら」――しかしながら、誰もこの場で、米友をばかにしているものは無いのです。もし、米友をここでばかにしたものがありとすれば、それは子鷲を拉し去った親鷲でなければならないのだが、あの二羽ともに、米友に対して感謝こそすれ、ばかにしているはずはないのです。畜生の悲しさに、なんらの意志表示もしては飛んで行かなかったけれども、夜の中空を、羽風を切って飛び去る猛鳥の姿は、米友をして一種豪快の念に堪えざらしめていたはずです。ですから、「ばかにしてやがら」と言ったのは、飛び立って行った鷲の親子に向けて発した怨《うら》み言《ごと》ではありません。
といって、この期《ご》に及んで、お雪ちゃんにとばしりを向けて剣突《けんつく》をくれてみよう理由はありませんから、結局、米友としては、的なきに矢を放っているようなもので、「ばかにしてやがら」――
それはまあ、一種の自己冷嘲として見ればいいのです。だが、何の故に、この際、自己冷嘲を試みて自ら慰めるのかという論議の段になってみると、これまた分析が相当にむずかしい。
何か、米友公には米友公相当の感情が、むやみに頭の中に群がって来てみたり、また、それが急に遁逃《とんとう》して空虚にされてしまったりする場合に、どこへ的を置いて矢を放っていいかわからないから、そこで突発的に、「ばかにしてやがら」――
今もただ、そんなようなきっかけで、「ばかにしてやがら」と鼻の先で言い捨てて、その途端に、手にしていた例の杖槍の一端を取ると、それをグルリと半径にブン廻しました。
杖槍を半径にブン廻してみると、自分の胸の筋肉が、かあんと鳴りました。
その筋肉の震動が、なんとなく米友に、一味の快感を与えたと見られます。それから即座に立ち直って、今度は頭の上へ持って来てブン廻して、見事に全円を描いてしまいました。
二十六
米友の自己陶酔の幕はそれから始まりました。
甲府城下の霧の如法闇夜《にょほうあんや》に演出した一人芝居は、あれは生命《いのち》がけの剣刃上のことでしたから、前例にはなりません。信州川中島の月の夜にこそ、一度この米友の自己陶酔を見かけたことがあるのであります。
今宵、たった今、米友は棒を振り廻してみることに、我ながら絶えて久しい自己快感を覚えました。それから、松の
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