って、容易ならぬ事態に陥ったという風聞《うわさ》がここまで聞えたものだから、それでお銀様が心もとながって、そうして拙者に、友造君を迎えながら様子を見て来てくれと言われたものだから、早速単身で斥候《ものみ》に出かけてみたが、いや、事態は全く重大で、うっかり近づけない、そこで、ともかく近寄れる距離に近づいて、探れるだけの事情を探訪して、ようやくいま引返して来たところなんだがな、とりあえずここへ駈けつけて、外で様子をうかがっていると、友造君が無事に立戻ったことの確かなのを知り、ホッと安心したというわけなんです」
「ははあ、そうか、それでわかった、誰か外に人がいるようだとそうは思っていたよ」
と米友は、何か思い当るところあるものの如く、ひとり合点《がてん》の声を立てると、関守氏は、
「そういうわけだから、まだお銀様にも復命していないのです、一刻も早くお館の方へ行って、お銀様にその事情を話して、明朝になってまたとって返して、こちらへやって来て委細をお話し申しましょう」
と言って関守氏は、立てともしにして置いた提灯《ちょうちん》を取り上げて、また同じ口から閾《しきい》を跨《また》いだが、一休宗純《いっきゅうそうじゅん》から問答をでもしかけられたような形になり、片足は外へ出して、
「ところで、さしあたり一つ心配なのは、その一揆暴動の崩れが、或いはこの辺へ押寄せて来ないとも限らない、胆吹山《いぶきやま》というところは昔から落人《おちうど》の本場なんだから――そこをひとつ、念のために用心をして置いて下さいよ、一時にそう潮《うしお》の押寄せるようにここまで押寄せて来るはずはなかろうけれども、一人二人、どちらのどんな奴が迷い込んで来ようとも知れぬ、戸締りをよくして置いて下されよ」
 こう言い置いて、外の闇の中に身を没しました。
「友さん、よく戸締りをして頂戴」
「大丈夫だ」
「いま関守さんが出て行った入口を、しっかり締めて、錠を下ろして頂戴な」
「なあに、あれはただ用心のために言っただけなんだから」
「でも、用心の上に用心に如《し》くは無しですから、もうすっかり締めてしまいましょうよ」
「じゃ、お前《めえ》の安心のために……」
と言って米友は立ち上って、土間へ下り、関守氏が入って来たところの出入口をぴったりと締めきって、枢《くるる》をカタリとおろしてしまい、
「これで、すっかり締めきりだ」
「廊下のしまりの方もお頼み致しますよ」
「よしきた」
 すべて抜かりなく締めきってしまって、さて二人とも、以前の座に戻ったけれども、お雪ちゃんは、もう絶対に銭勘定を繰返そうという気になれませんでした。
 そこで米友は緡《さし》を取って、穴あき銭をそれに差込んでいると、暫くあってお雪ちゃんがその手を抑えるようにして、
「今晩はもうこれだけにしましょうよ、なんだか怖いから、お銭《あし》の音をさせないで頂戴な」
 お雪ちゃんから哀求的に言われたので、米友も、強《し》いてとは進みきれない心持になりました。
 こうなると、二人はもう寝ることだけの仕事が残っているようなものです。当然お雪ちゃんが言いました、
「お寝《やす》みなさいな、米友さん」
「お雪ちゃん、お前、先に寝みな、おいらまだ眠くねえ」
「でも、ずいぶん疲れてるでしょう、わたしがここにお蒲団《ふとん》を敷いてあげますから」
「いいよ、おいらはゴロ寝でかまわねえんだ、お雪ちゃん、お前、先へ寝な」
「でも、友さんを残して置いて、わたしだけ先へ寝るのは済まないわ」
「遠慮は要らねえよ、おいらのことは、人並みに扱わなくってもいいんだからな」
「そういう理窟ってありませんわ、あなたも人間なら、わたしも人間です」
とお雪ちゃんが、妙なところへ人間平等論をかつぎ出したのは、米友に議論を吹っかけるつもりではない。つまり米友が、おいらのことは人間並みに扱わなくってもいいんだから――と言ったのだが、聞きようによっては、ずいぶん拗《す》ねた、僻《ひが》んだ言い分に聞えるのですが、米友のは、そういう意味でなく、むしろ自慢の意味も含んで――おいらのことは人並み以上に身体《からだ》が鍛えてあるんだから、人並みの待遇をしてくれなくとも意とするには足りないのだ、という言い方なので、これはお雪ちゃんもわかっているけれども、言い廻しが言い廻しだったものだから、そこでお雪ちゃんも、妙な人間平等論の切先《きっさき》が出たわけなのです。
 しかし、お雪ちゃんは口前ばかりでなく、この時にはかいがいしく立ち上って、戸棚から夜具蒲団を取り出して、まず米友のために一方へ敷き展《の》べ、その間へ小屏風《こびょうぶ》を立て、そうして、次に自分のためにほどよきところへ蒲団を敷きかけた時に、またしても今まで静まり返っていた鷲の子が、急にけたたましいはばたきをはじめたもの
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