「そうもゆくまいよ」
「なんだか、あたし、後から追手《おって》がかかるようにばっかり思われてなりませんの。大丈夫でございましょうね、宇津木さん」
「大丈夫だ――その点は心配しなさるな」
「でもなんだか――あなた、中房の時のことが思い出されてならないわ、あなたあの時のことをお忘れじゃないこと」
「忘れやせぬ」
「あの時の、あなたのまあ、冷淡なこと、なんてつれない道づれでしょう、わたしまだ、恨み足りないことよ」
「うむ」
「仏頂寺なんかという、あんなおさむらいにわたしをさらわせて、あなたは狸をきめていらっしゃる、あなたこそいい厄介ばらいをして清々《せいせい》したでしょうが、あれからわたしの身が、どういうふうに取扱われたか御存じ?」
「知らない――ただ、君とまたしても高山で対面したことが、不思議な御縁と思っているばかりだ」
「御縁のはじまりはもう少し前に遡《さかのぼ》るのね、そもそもあの松本の浅間のお祭礼《まつり》の晩――あの時こそ、ほんとうに失礼しちゃいましたわ」
「うむ」
「でも、あなたという方は、本性《ほんしょう》はやっぱり親切なお方なのね、中房のお湯屋のお蒲団《ふとん》のお城の中に囲《かく》まわれているわたしを、わざわざ探し当てて下さいました」
「あれは、君をたずねるためじゃない、別にたずねる人があって、それが偶然に……」
「偶然にでもなんでもよろしうございますよ、あんな山奥の宿の中に、蒲団蒸しにあっているわたしを、わざわざのように訪ねて下さったのは、やっぱり尽きせぬ御縁のうちなのだわねえ」
「うむ」
「まあ、あなたも、ここへお坐りなさいましな、前に日限のある旅ではなし、あとから追手のかかる旅でもないじゃありませんか」
「しかし、日のあるうちに、ゆっくり夏厩《なつまい》の宿《しゅく》まで着かなければならん、あえて急ぐには及ばないが、そう緩慢にばかりもしておられぬわい」
「わたしのためなら、かまわないことよ、ここでこうしてあなたとお話をしている間に、日が暮れてしまいましょうとも、夜が明けましょうとも、わたしはかまいませんのよ」
「夜露に当ると毒だからな」
「まあ、あなた、今からわたしのために夜露の心配までして下さるのね。いっそ、その夜露にぬれてみたいわ」
「ともかく、そろそろ出かけようではないか」
「ねえ、宇津木さん」
「何だ」
「誰も、人は来やしませんか」
「誰
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