中を経めぐって来る」
 そう言うと与次郎は、直ぐに六部の装束をし、笈物《おいぶつ》をしょって、鉦《かね》をチャンチャン叩きながら、その日のうちにぶんだい(出参)た。
 さて、村の周囲《まわり》に聳える山々のうち、どれか一つ越えねばならぬが、それならば第一に親猿をうちとめた山へ登り、まずそのあとをとむらって行こうと、あの清水の湧く山さして登って行った。
 すると、あれほど勝手知ったる山でありながら、今日に限ってどう踏み迷ったか、行っても行っても清水のところへ出ないばかりか、ますます奥深く迷い込む様子なので、与次郎は困りきって道端の石に腰を下ろし、
「二十年も歩き慣れたこの山で、道に迷うなんて全くどうかしている、とにかく、少し気を落着けてみず」
と、じっと眼をつぶった。するとどこからともなく、かすかに猿の啼《な》き声が聞えて来る。耳を澄ますと、だんだんこちらへ近づいて来た様子なので、与次郎が驚いて眼をあけて見ると、向うから何十匹とも知れぬ猿が枝に伝わってやって来たが、それが皆、与次郎の前へ坐って一礼した。
 おまけにその猿共の一番前に、逃げた手白がいる。手白はふと立ち上り、与次郎の着物の裾を引いて、どこかへ連れて行く様子ゆえ、今は与次郎もどうするという当てもなし、怪しみながら、ただ手白のするがままになって続いて行った。
 山が次第に深くなって、もう大分来たと思われる頃、一つの広い岩屋に到着した。その中に枝葉がいっぱい敷いてあって、何百とも数知れぬ大猿小猿が並んでいるし、なおよく見ると洞穴の真中辺に、岩で囲んだ井戸のようなものがあって、湯気がポッポと立っている。
 与次郎は、びっくりして見ていると、手白がツカツカと進んで、その井戸のようなものの中へ飛び込み、直ぐ一人の赤児を抱いて出て来た。与次郎が驚いてよく見ると、その赤児は、疾《と》うに死んだはずのおしゅんであった。
 おしゅんは、やけどの傷も更に無く、前にも増して元気になっていたので、与次郎は夢かとばかり喜んで、手白の手を握って厚く礼を言うと、手白も与次郎の手を舐《な》めずって、さも嬉しそうな顔をする。与次郎は衣の端を裂き、それにおしゅんをクルんでヒトコへ入れて喜び勇んで山を下った。
 何百とも数知れぬ猿共は、手白を先頭に、麓《ふもと》の村が見える所まで与次郎を送って来てくれたが、いよいよ別れる時になると、さすがに手白
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