も残り惜しそうに、後ろを振返り振返り山へ帰って行った。与次郎もまた笠を振りながら、やはり見えなくなるまで見返り見返り山を下った。
家に帰ってこの話をすると、女房も飛び立つばかり喜んだが、与次郎は、
「俺ア、こうしてせっかく六部に行こうと思い立っとう[#「とう」に傍点]だから、どうでも行って来る」
と、おしゅんや女房を伯父《おじ》に預けて、よく後々のことを頼み、そのまま六部になって行った。
その後、なんぼ探しても、手白も、その不思議な猿の湯も、二度とは見つからなかった――
土橋のおくら婆さんから、土地の言葉で、こういう話をして聞かせてもらうと、子供たちは皆、膝に手を置いて、感心しきって、しーんとして聞いていたが、その話が終ってしまうと、そこは子供のことで、忽《たちま》ちがやがやと陽気になり、一人立ち、二人立ち、やがて元気いっぱいになり、
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医者どんの頭をステテコテン
医者どんの頭をステテコテン
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と一方で合唱をすると、他の一方にかたまった連中が、
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そんなこと言うもん[#「もん」に傍点]の頭をステテコテン
そんなこと言うもん[#「もん」に傍点]の頭をステテコテン
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と、負けない気になって合唱をはじめる。そうすると前のやからが、ひときわ声を励まして、
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医者どんの頭をステテコテン
医者どんの頭をステテコテン
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と合唱する。それに対抗する一方は、またひときわ声を張り上げて、
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そんなこと言うもん[#「もん」に傍点]の頭をステテコテン
そんなこと言うもん[#「もん」に傍点]の頭をステテコテン
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ステテコテンの対抗合唱で、天地も割れるほどの騒ぎとなったが、塾長先生は、別にそれを制しようともせず、叱ろうともせず、一席の講話を終って息を入れているところの、土橋講師のところへ行って、
「大へんにため[#「ため」に傍点]になるお話を聞かせていただいて、わしらも貰い泣きをしたでがす」
と言って、頭を下げて挨拶をしました。
七十七
お銀様の父伊太夫は、その日は書斎にたれこめて、帳面を見たり、物を考えたりしていました。
伊太夫に大きな悩みのあることは、すでにわかっていること
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