空を後家入りをした番頭のために、こっちよりも、向うを可愛ゆく思って、夫婦仲も極めてよろしく、そうして三年の間に、二人の間にまた一人の子供まで出来、商売もいよいよ繁昌し、家内も、平和と、無事と、愉快とで過ごして行きましたが、これがこの分で通れば、世の中には神も仏もございません。
 三年目に、死んだ主人の法要をして、夫婦してお寺参りを致しました。

         六十八

 その日の法要が済んで、いざ帰宅という間際になると大夕立です。
 お寺の本堂の庇《ひさし》から流れ落ちて、庭の小溜りに夥《おびただ》しい泡《あわ》んぶくが動揺しているのを、雨をやませながら、右の若い番頭が見るともなしに見やると、その昔の凶状のことを思い出してゾッとしました。
 あの時の光景が、まざまざと眼に浮んで来ました。主人が苦しみもがく断末魔の表情と、頼むにも、訴えるにも、生き物という生き物が一つも見えない苦しまぎれに、眼前に漂うあの泡《あわ》んぶくを見て、「泡《あぶく》、泡、泡、泡んぶく、おお、泡んぶく、敵《かたき》を取ってくりょう、泡んぶく、お前、敵を取ってくりょう、敵をとってくりょう」
と絶叫した主人の、血みどろな形相《ぎょうそう》を想い出すと、さすがにいい気持はしないで、一時は面色《かおいろ》を変えてみたが、それが静まると、かえって今度は反抗的に、一種の痛快味をさえも覚ゆるようになりました。
 笑止千万なことだが、泡んぶくを頼んでも、いまだに敵を打てはしない。身上も、商売も、そっくり譲り受けた上に、あのお内儀さんを、忠実無類のわたしの女房として有難く納めている。これでも罰は当らない、ほんとうに御主人にもお気の毒なわけだが、泡んぶくにもお気の毒だ! こういう魔性《ましょう》が心の中に頭をもたげると、思わず面の表情に現われて、庭の泡んぶくを見ながら、思わずニッと笑いました。その笑い方が、さげすむような、あざ笑うような、たんのうするような、何とも言えない複雑な表情をして見せたものですから、傍にいたお内儀さんが、変な気になりました。昔は召使、今は夫として仕えているこの若い男が、泡んぶくを見て、ひとり変な笑い方をした、その意味がちっともわからない。それを気にしながらそれでも雨をやまして、無事に自分たちの家へ帰って来ました。
 その晩の寝物語にです、お内儀《かみ》さんは、この疑問を若い夫の上に打ち
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