からお前は何と返事をしました」
「それからでございます、私も、何と御返事を申し上げてよろしいかわからないでおりますと、旦那様がわたくしを、もっと傍へ寄れとおっしゃって、それからでございます、お内儀さん、お気にかけられては私が困りますが……」
「何の気にかけるものか、お前の言うことは即ち主人の言うことと、さっきからあれほど言っているではありませんか」
「では申し上げてしまいますが、その時に旦那様が、わたしの耳へ口をつけるようにしておっしゃいましたのは、今いう通りの次第で、親類身寄りというも、あとを托するほどの心当りはないのだから、お前にひとつ、迷惑でも、一切わたしに成り代って、この後のあの家を見てもらいたい、身代も、商売も、引きついでもらえまいか、それについて、お前には気の毒だが、あのわしの女房も、子供こそ二人あるが、まだ老いたりという年ではなし、お前が……」
「まあ」
「お内儀さん、旦那様がそうおっしゃいました、お前、年に少し不足はあろうけれども、いっそあれと一緒になってくれないか、そうしてもらえば、家も、商売も、女房にも、みんな安心してあとへ残して、行くところへ行けるのだが、とこうおっしゃって、息をお引取りになりました」
「まあ……」
その時、お内儀さんは真赤になってしまいました。
もとよりこのお内儀さんは、出立間際に、若い番頭に向って、ああいうことを言ったけれども、なにも本心からこの男を好いて不義を働こうとしたわけではなく、主人の浮気おさえの目附役として、番頭を手なずけて置きたいという女心に出たものなのでしたが、事態がこう急転してみると、まるで演劇の廻り燈籠《どうろう》を見せられるように目がくらんでしまいました。
しかし、好きこのんで行うわけではないが、真に憎い奴というわけでもない、若い番頭からこう言われてみると、なるほど、それがまた主人の本心であったかも知れない、へたに親類身よりに荒されるよりは、気心も心得ているし、商売ものみこんでいる、この若い番頭のほかには、いよいよとなると頼みになる者はない――と主人も心づいたというのが無理にも聞えないし、自分にしても、そう思われないことはない。
そうして、お内儀さんは、とうとうこの若い番頭に許してしまいました。
許してしまってみると、自分より年下でもあるし、また働きもあるし、子供たちの面倒も見てくれるし、若い身
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