っては、旅先で悪所通いをなすったり、よからぬ女にはまり込んだりなさるような心配は決してございませんし、わたしがお附き申していて、決してそんなことはおさせ申しませんが、万一、旅先で御病気になるとか、盗人追剥などのために、まあ、御災難を思いやっていては際限がございませんけれど、もし、そんな場合があったと致しまして、わたしが残っているような場合がありましたならば、わたくしがどこまでもお内儀《かみ》さんの力になって、旦那の御商売をついで、御一家をお立て申して上げますから、御安心下さい」
「何というお前の頼もしい言葉でしょう、それでは、もしや旦那がない後も、お前は、いつまでもこの家にいて、わたしたちのために力になってくれますね」
「それはもう、全く無給金でお家様のために働き、この御商売を、わたしの力で守り通して行って、ごらんに入れます」
「そのお前の言葉を聞いて、わたしは全く安心しました、きっと、その誓いを忘れないで、わたしの力になって下さいな」
「それはもう、わたくしは、最初からお内儀さんの味方でございます」
「嬉しい」
「では明日は、信州の方へ旦那様のおともをして商売に出かけて参りますから、そのおつもりで、御安心なすってお待ち下さいませ」
「ええええ、お前のために蔭膳を据《す》えて待っていますよ、早く帰ってちょうだい」
「わたくしも、それでなんだか、いっそう商売にも励《はげ》みがつき、自分の将来も安定したような気持が致します。では奥様、行って参ります」
「行っておいで、無事にね……」
 こういったような話し合いで、若い番頭を主人のともをさせて、信州路への旅へ送り出しました。
 信州へ出かけてからの商売も順調に行き、儲《もう》けも相当にあって、主従は早くも故郷の甲州へ向けて快く帰路についたのですが、その途中、ある山の中で、烈しい夕立に遭《あ》ったのが運の尽きでした。やっと道端の、ささやかな山小屋の中へ主従が逃げ込んで雨宿りをしたのです。まもなく霽《は》れることと思っていた雨も、意外に長降りをしている間に、旅の疲れで主人の方は旅装のまま、その山小屋の中で、つい、ぐっすりと寝込んでしまいました。商売の方がうまく行った安心と、旅の疲れとで、番頭がちょっと起しても起きられないほど、熟睡に落ちていたのです。
 あんまりよく眠っているところを見ているうちに、若い番頭の胸の中にむらむらと
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