となる――それに越したことはないと考えて、夫との間に二人の子供まであるのに、その若い番頭に色気を見せて、手なずけにとりかかりました。色気を見せたといううちに、まだ不義を許したわけでもなんでもないが、落ちるような風情《ふぜい》を見せて、番頭に気を持たせながら、引っかけて行ったものに違いありません。
「ねえ、わたしも、旦那がああして商売に精出して下さるから有難いことは有難いが、どうも商売にばかり凝《こ》って、家のことを心配して下さいません、わたしというものも、子供というものも、あってないようなものなのです。本来、情というものが乏しい人なんだから、わたしもそれを思うと心細い。そうして、ああいうように、絶えず旅から旅を廻っているうちに、もしかして、よその女にでも情をうつすようなことになっては、わたしたちの身の上はどうなるかわかったものではありません。それを思うと全く、わたしは二人の子供をかかえて路頭に迷わなければならないようになるにきまっています。親類も、身よりも、たよりになるものはなし、そうなると、味方としてはお前を頼むよりほかはないから、後生《ごしょう》だからお前はよく旦那様のお守役をするといっしょに、わたしの力にもなって頂戴、もし旦那様に万一のことがあるときは、わたしはお前ばっかりが頼りなのだから……」
 二人の子供がありとはいえ、まだ水々しい年増《としま》の主人のお内儀《かみ》さんから、こう持ちかけられると、若い番頭の胸は躍《おど》らないわけにはゆきません。何か知らん甘い、そうして空怖ろしい戦慄が全身に起りました。
「お内儀さん、御安心なさいませ、わたしが附いて行く限り、決して旦那様を悪い方へお導くようなことは致しません、それに旦那様も、全く旅でお固いのですから、どう間違ってもお内儀さんの御心配になるような事態が引起されるはずはないのでございます、それは、わたくしが固く保証を致しますから、御安心下さいませ」
「だが、お前、人の心というものは、いつどう変るかわかったものではありません、固いといった人が道楽を覚えると、かえって遊びをした人よりも深くはまり込むこともあるのです――そうでなくても、もし旦那様が旅で御病気になるとか、盗賊追剥にでも害されるようなことがあったとしてみると、それからのわたしは、どうしましょう」
「それはお内儀さんの思い過ごしでございます、旦那様に限
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