、出立間際のお内儀さんの甘い言葉と、そのたっぷりした年増肌《としまはだ》とが現われて来ました。
「そうだ、この旦那さえなければ、あの旦那の身上《しんしょう》そっくりと、それから、わたしに心を持っていて下さる、あのたっぷりしたお内儀さんも、わたしのものになるにきまっている。うむ、そうだそうだ、自分も使われる人でなくなって、あの身上も、商売も、自由に切り廻す主人となれるのだ。そればかりではない、あのたっぷりしたお内儀さんを自分のものとして、家庭を楽しむことができるのだ。この旦那様さえなければ、この旦那様をさえないものにすれば……幸いここは甲斐と信濃の山路の奥、いま降り出した烈しい夕立、只さえ人通りのないところを、前後に全く見ている者はない、天道様さえこの豪雨で姿を隠している、ここに脇差がある、旅の用意の道中差、家を出る時、わたしは用心のために研《と》いで置いた、旦那はこの通りよく眠っている、これで一突き、それで万事がきまる、もし間違って、少しは騒がれてもこの場合、この雨――そうして、後ろは何千丈の谷底だ、死骸をあれへ突き落してしまえば、あとかたもなくなる、もし、見つけられても盗賊追剥の災難といえばそれでも済む――ああ、お内儀《かみ》さんの姿が目の前に浮んで来た、あのたっぷりしたお内儀さんが、にっこり笑って、おお、そうそう、お前の思い通り、一思いにそうなさい、そうそう臆病になっちゃいけない、強い心で……と言ってお内儀さんが手を添えて下さる、もう我慢ができない、決心した!」
 こう思うと若い番頭は、急に物狂わしくなり、わななく手元で脇差を取ると早くも鞘《さや》を払い、いきなり主人の身辺に寄ると、後ろに悪魔がいて手伝いでもするかの如く、すごい勢いで、主人の咽喉《のど》をめがけて、その脇差を柄《つか》も通れと突き立てました。

         六十七

 いかに熟睡に落ちていたとはいえ、咽喉を突き刺されて眼をさまさぬ者はない。主人はやっと目を見開いて見るとこのていたらくです。
「あ、お前、何でわたしを殺すのだ」
「旦那様、済みませんが、わたしばかりをお恨み下さいますなよ、これはお内儀《かみ》さんが手助けをして、わたしにこうさせているのだと思って下さい」
「ナニ、家内がどうした?」
「旦那様を亡き者にすれば、旦那様の御身上も、商売も、それからあの美しいお内儀さんも、わたしのもの
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