だから、どうしても舟の連中の耳障《みみざわ》りにならないわけにはゆきません。しかし、誰も進んで、出ないとも出るとも言わないで、舟の装いに忙がしがっているものですから、右のまがいものの法界坊はしつっこく、
「あらおもしろの八景や、まず三井寺の鐘の声、石山寺の秋の月、瀬田唐崎の夕景色、さては花よりおぼろなる、唐崎浜の松をはじめ、凡《およ》そ八景の名所名所の隅々まで、案内はもとより故事来歴までも、一切心得て候、あわれ福徳円満諸願成就の旦那衆、一杯の般若湯と、五十文の鳥目をたびて給べ候え、御案内を致そうずるにて候」
それを聞いて、たまり兼ねた若い者の庄公が、
「何だい、何だい、何をおめえさん、そこでブツブツ言ってるんだい」
「あわれ一杯の般若湯と、五十文が鳥目とをたびて給べ候え、八景の名所名所、洩《も》れなく御案内を致そうずるにて候」
「何か七《しち》むずかしいことを言っているが、何かい、酒を一杯飲ませてくれて、五十貰えば八景の名所案内をしてくれるとでもいうのかい」
「さん候《ぞうろう》、何《いず》れもの旦那衆にさように勧進《かんじん》を申し上げて御用をつとめまいらせ候、今法界坊とは、やつがれのことに御座あり候」
「うるせえな、親方――」
と、お角の方を庄公が向き直って、
「親方、お聞きなさる通り、へんてこな奴がやって来ました、あの法界坊の出来損ねえみたいな奴が、一杯お酒を御馳走になって、五十貰えば名所案内をしてくれるって言いますが、追払っちまいましょうか」
お角がそれを聞いて、
「まあ、いいから呼んでおやりよ、わたしはあんまり故事来歴なんぞ知らないから、聞かしてもらえば学問になるよ、こっちへ呼んでおあげ」
と言いましたから、庄公はまた今法界坊の方へ向き直って、
「おい、法界坊さん、じゃあ案内をおたのみ申すことになるんだそうだから、こっちへお入り」
「これは、忝《かたじ》けのう存ずるにて候」
と言って、のこのこと今法界坊は舟の中へ入って来て、一隅にちょこなんと座を構えました。
そうしているうちに、舟はようやく纜《ともづな》を解いて乗り出す。天気も好いし、景気もいいものですから、お角さんもいい気になって今法界坊を手許《てもと》に差招き、
「和尚さん、さあ、一つあがり。わたしゃ、こちらの方へは今日はじめてで、いっこう何も知りませんから、一杯やりながらいろいろこの土地の世間
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