うな》り声があるばっかりです。
「お雪ちゃん、どうしたんだってえば、しっかりしてくんなよ」
と米友は、二たび三たび抱き上げたお雪ちゃんを烈しくゆすぶりました。
この際、米友としては、ゆすぶってみるよりほかの芸当はなかったのでしょう。事が全く不意に出でたものですから、本人をゆすぶって、本人に事の仔細をたしかめてみるよりほかには詮方《せんかた》がない。その本人にたしかめてみる以前に、本人の正気を回復さしてかからなければならない。
「お雪ちゃーん、お雪さん、しっかりしろやい」
この烈しい米友のゆすぶりに対して、お雪ちゃんの挨拶としては何もなく、少し間を置いて、そうして恐ろしい唸りの声ばかりで、今度はその唸り声さえ漸く低く勢いを失ってきて、その身体までがみるみる弾力を欠いて、そうしてぐったり米友の身体の上に崩れかかるようなものです。
およそ米友としては、若い娘のこういった態度を、今までにこれで二度まで見せつけられました。その一つは、申すまでもなく、本所の相生町《あいおいちょう》の老女の家で行われた幼な馴染《なじみ》との間の生別死別の悲劇がそれでありました。
あの時は、天地が目の前ででんぐり返ったと同様で、何が何だかわからなくなってしまったが、でも、死ぬ人は充分覚悟の前であり、そうして枕許にはお松さんという日本一頼みになる人がついていて、一から十まで行届いた臨終ぶりというべきものでありました。
然《しか》るに今晩のことは、まるっきり違う。お雪ちゃんを介抱すべく誰もいやしない。それはそのはずで、今のさきまで元気でいた若いお雪ちゃんのことだから、誰も急変を予想しているはずのものはないのに、突発的にこの急変なのです。米友といえども全く周章狼狽せざるを得ません。
周章狼狽は極めてはいるけれども、全く失神迷乱しているわけではない。その点に於ては寧《むし》ろ相生町の時の、天地が目の前ででんぐり返って自分の立つところ、居るところがわからなくなったとは違って、何が何だか事の順序を見きわめるだけの余裕はあったのです。
まずあの炉辺から、自在と鉄瓶とを突破して、一気にこの室へはせつけしめられた異常というのは、この室から起ったところのお雪ちゃんの異様なる叫び――ではない、唸り声がもとなのでありました。その一種異様なる唸り声を聞きつけると、米友が例の早業で、一気にここへはせつけて来ての
前へ
次へ
全220ページ中119ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング