りになって、そうして朝晩にこうして、お池と、用水と、井堰とを見守って、一生をお送りなさい。そうでなければわたくしと一緒に、嵯峨《さが》の奥というところへいらっしゃい、そこにはいと静かにわたくしたち母子が住んでいるのみならず、今ではあの仏御前《ほとけごぜん》も一家族の中の一人となりました、ちょうどあなたぐらいの少年が、何かにつけて一人欲しいと思っていたところなんです――よかったら、いらっしゃい、ね」
 言葉が余韻《よいん》を引いて、姿が隠れてしまいました。水門の蔭に没したようでもあり、水の底に沈んでしまったようでもあります。
 賢母も、少年も、惜しそうにその池の面を見つめておりましたが、もう、いずれのところからも再び姿を現わす気色はありませんでした。
 それを見ているうちに、今まで明るく点《とも》されていた蛇《じゃ》の目桔梗の提灯が、いつの間にかふっと消えておりました。それが消えると、賢母の姿も、沈勇少年の姿もなく、真暗闇。
 大平寺の門前の庭に、針のように突立っている例の黒い姿が一つあるばかり。
 比良ヶ岳の方を見上げると、時ならぬ新月が中空にかかっている。
 上平館《かみひらやかた》の方を見た時に、青い火が一つ、それは例のセント・エルモス・ファイアーではない、青い火の塊りが一つ、ふわりと飛んで、一定の距離に淡い筋を曳《ひ》いたかと思うと、暫くにして消えてしまいました。
 多分、俗に人魂《ひとだま》とでもいうものなんでしょう。

         四十六

 それはさて置いて、残されたりし上平館の松の丸の炉辺で、今、米友がスワと、炉辺の席を蹴って立ち上りました。
 そうして、自在も、鉄瓶も、大またぎに突破して跳り込んだのは、さいぜんから問題の納戸《なんど》の一間、これを奥の間とも呼んだところの一間であります。納戸と奥の間とは違うけれども、この際、炉辺と台所とを標準にすれば、いずれも構造的に奥の方に当るのですから、奥の間とも、納戸の一間とも、この際に限って呼んで置きましょう。
 そこへ米友が一息に飛び込んで行って、
「お、お雪ちゃん、どうしたい、お雪ちゃん」
 寝ている蒲団《ふとん》の中から、お雪ちゃんの身体《からだ》を引きずり起して、両方の腕で掻抱《かきだ》いてむやみにゆすぶりました。
 ところが、お雪ちゃんにはいっこう返事がなく、返事の代りに、聞くも苦しそうな唸《
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