仏御前に寵愛《ちょうあい》を奪われましてから後の、わたくしたちの運命というものは、御承知の通りでございまして、すべての世界も、人情も、みんな一変してしまいましたが、ただ一つ変らぬものとして、ごらん下さいませ、この井堰《いぜき》の水の色を……」
と言って、美人は後ろを顧みて漫々たる池水を指し、
「わたくしたちのあらゆる栄耀栄華《えいようえいが》のうちに、ただ一つ、これだけが残りました」
と言って、美人は相変らず水門に腰をかけた卒塔婆小町のような姿勢で、うしろの池水を指さしながら、
「この池と、この井堰と、この用水とは、わたくしが六波羅時代に掘られたものでございます、それは、わたくしの生れ故郷の人たちが、水に不足して歎くところから、わたくしが費用を出して、この池と、塘《つつみ》と、堀とを、すっかりこしらえさせてやりました。なに、天下の相国《しょうこく》の寵愛を一身に集めたその時のわたくしたちの運勢で申しますと、こんなことは数にも入らないほどの仕事でございました。わたくしはただ、ほんのお義理をしてやる程度の思いで、自分では忘れてしまっていたくらいの仕事が、どうでございましょう、今日になって見ると、わたくしの一生のうちの最も大きな、そうしてただ一つの功徳《くどく》の記念となって、永久に残されることになりました」
美人は、今となってはじめて、その当初には思いも設けなかった、自分のした仕事のうちの最もささやかなことの仕事の一つに、自分のあらゆる生活の最も大きな意義を見出したかの如く、惚々《ほれぼれ》とこの池の水を見ていましたが、やおら立ち上って池のほとりをさすらいはじめました。
「坊ちゃん、こっちへいらっしゃいな」
しなやかな手を挙げて、沈勇な少年を小手招ぎをするのです。
少年は、そのしなやかな誘いに応じて行きたくもあるし、母の手前をも憚《はばか》っていると、美人の姿は飄々《ひょうひょう》として池畔《ちはん》をあちらへ遠ざかり行きながら、その面影と、声とははっきりして、
「ねえ、坊ちゃん、あなたのこれから頼ろうとなさる御親類の方が、この後、たとい太政大臣におなりあそばし、或いは摂政《せっしょう》関白《かんぱく》の位におのぼりになりまして、従って、あなたが大名公家に立身なさろうとも、それは、あなたの幸福ではありませんよ。本当の幸福を思うならば、これから故郷の中村とやらへお帰
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