しさと、それから和《やわ》らかさを持っている人であることは疑うまでもないほどです。
「どなたでございますか」
 こう不意を打たれても、賢母はあまり狼狽《ろうばい》しませんで、そうして物静かに、おとない返したものです。
「御免あそばせ、失礼とは存じつつも、あなた様方のお話を、途中でおさまたげするのも何かと思いまして、こちらで伺っておりました」
「少しも存じ上げませんでしたが、どこからお越しになりました」
「都からのぼって参りましたが、実はこちらがわたくしの故郷なのでございます」
「さようでいらっしゃいますか」
 ここで、両女の受け渡しがはじまりました。
 最初の婦人を、仮りに賢母と名づけ、後なる白衣の婦人を美人と呼びましょう。
「あなた様には、御子息様をお連れになって、尾張の中村からお越しあそばされましたそうな」
と美人が押返してたずねると、賢母が直《ただ》ちに答えました。
「はい、お聞きの通りでございます」
「そうして、あの長浜に御親類のお方が、たいそう出世をあそばしておいでなさいますそうで、それへ御子息をたのみにおいでの由を承りましたが」
「はい、仰せの通りでございます」
「つきましては、甚《はなは》だ不躾《ぶしつけ》でございますが、わたくしの考えだけを申し上げますと、それはおやめになった方がおためかと考えますのでございますが……」
「何と仰せになりましたか」
「はい、御子息様を御親類の方へお連れあそばして出世をおさせ申すことは、おやめになった方がおよろしくはございませんかと、わたくしはさように申し上げたのでございます」
「では、わたくしたちが長浜へ参るのは、悪いとの仰せでございますか」
「その通りでございます、御子息様をお連戻しになって、尾張の中村へお帰りになるのが、あなた様方のおためかと存じまして」
「それはいったい、どういうわけでございましょう」
「まあ、お聞きあそばせ」
 水門に腰かけている美人は、提灯《ちょうちん》を提げていささか立ち煩《わずら》っている賢母に向って、あらためて物語をはじめました、
「わたくしは、出世をすることが必ずしも人の幸福《しあわせ》ではないと覚えておりまする、幸福でないのみならず、出世をするのは、人間の最も大きな不幸と災禍《わざわい》の門を入るものと覚らずにはおられないのでございます、それ故に、あなた様方の、只今のお話を、ここでお
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