ゃらぬ日とてございますまい、わたくしが、どうやらこの子を今日まで育て上げましたのも、亡き連合いの魂魄《こんぱく》が守護してくれましたそのおかげとばかり思っておりまする」
「そうおっしゃられると恐縮です、あなたはこうして、立派にすんなりとお子さんを育て上げて、立身出世を亡き連合いとしてのこのお子さんの父君に誓願しておられるが、拙者ときた日には、父の名こそ同じ弾正ではあるが……子の成れの果てはお話になりません」
「いいえ、さようなことはございません。しかし親となってみますと、頑是《がんぜ》ない時は頑是ない時のように、よく行けばよいように、悪くそれればそのように、もしまた立身出世いたしましたからとて、それで心の静まるわけのものではございません」
「では、何のために立身出世をさせるのですか」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と、竜之助から問いつめられた賢母の人は、愛想笑いをして、
「そういうむずかしいことをお尋ねになっては困ります、今のわたくしは、ただ子供に立身出世をさせたい一心だけでございまして、立身すればするように、苦労が増すものか、減るものか、そのことなんぞは実は考えていないのでございます。それはそうと、もうかなり時がうつりました、それではそろそろ長浜へ向って出かけることと致しましょう」
と言って、木の枝に程よく吊《つる》した提灯《ちょうちん》を取下ろすべく、賢母が腰を上げて手をのばしました。
 賢母が提灯を手にとろうとすると、その後ろで不意に、
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と笑う声がしました。
 三人が言い合わせたようにそちらをみやると、水門の水口《みなくち》のところに、腰打ちかけてこちらを向いている一人の白い姿があるのです。
 最初は絵に見る関寺小町《せきでらこまち》とか、卒塔婆小町《そとばこまち》とかいうものではないかと怪しまれたほど、その形がよく画面に見えるそれと似通っておりました。
 無論、女です。白い着物の裾を長く曳《ひ》いて、白い帯に、白い頭巾で、目ばかりを出して、不意に「ホ、ホ、ホ、ホ」と笑いかけたものですが、その笑い声がいかにもやわらかで、そうして美しさと、若さを含んでおりました。
 卒塔婆小町? と疑ったのは、その姿を見た瞬間の印象だけでして、その声を聞くと、どうして、ずっと若い、美しい水々しさを持っていることに於て、やはりその頭巾の中の主も、声と同じような若さと、美
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