聞過しにするに忍びないのでございまして」
「異《い》なことをおっしゃいます、それは不祥なお言葉でございます」
「せっかくの御子息の門出に、ケチをつけるというつもりは毛頭ございません、身につまされましたものでございますから――つまり、わたくしというものが、その出世にあやまられた一つの見せしめなんでございまして」
「いったい、あなた様はどなたでいらっしゃいますか」
 賢母は、美人の言い廻しの奇怪なるに、ついその身の上の素姓《すじょう》を問いたださざるを得ない気持にさせられたようです。
 そうすると、美人はそれに答えないで、おもむろに横の方を向きながら、物々しい声で朗詠のような調子をはじめました。男性を思わせるくらいの朗々たる音吐《おんと》でしたが、その調子の綴りを聞いていると、まさに一首の歌です。
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萌《も》え出づるも、枯るるも、同じ野辺の草
 いづれか、秋に、逢はで、果つべき
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         四十五

 その時、賢母はいささか手持無沙汰に見えました。歌を以て答えられたけれど、自分には歌をもってこれに応ずる素養が欠けていることを恥づるとしも見えないけれど、さて、その突然なる朗詠に向って、何と挨拶をしていいか、ちょっと戸惑いをした形でいると、
「お母さん」
と、意外なるところから助け船ではないが、ちょっとばつの悪くなった気合を補ったのは、同伴の沈勇なる少年でありました。
「お母さん、この方は祇王様《ぎおうさま》じゃございませんか」
「何ですか」
「あの、六波羅《ろくはら》の祇王様なんでしょう」
「六波羅の祇王様」
 賢母が少年の言葉に駄目を押していると、美人がそれを聞いて、また朗らかに笑いました。
「ホ、ホ、ホ、坊ちゃん、あなたはよくわたくしを御存じでしたね」
「お母さん、あの、ほら、平家物語のはじめの方にある――」
「ああ」
と賢母も、はじめてうなずきました。そうすると美人は、わが意を得たりとばかり、
「おわかりになりましたね、わたくしが六波羅の平清盛の寵愛《ちょうあい》を受けていた祇王と申す女なのでございます」
「ああ、さようでございましたか、つい、存ぜぬ事ゆえ失礼をいたしました」
「失礼は私こそ、斯様《かよう》に身元がはっきりと致して参りました上は、なお包まずに申し上げてしまいましょう。都へ出て、清盛の寵愛を一身に
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