四十三
その話しながら来る場所が、こちらの突立っている覆面の人に、追々近く迫って来るのです。
こちらでは、その人の話し声も、提灯の光も、それがだんだん近寄って来ることも、先刻御承知のはずなんだが、あちらでは、ここにこの人のいることを想像だもしていないことは確かです。よし、鼻を突き合わすようなところまで近づいて来たとしたところが、闇の空気の中に、この通り覆面の異装で立っていられては、気のつくはずはないのです。こういう場合にこそ、あの先刻のセント・エルモス・ファイアーが気を利《き》かして燃え出してくれればいいのに。
こちらは先刻承知の上だからいいけれども、先方がかわいそうです。こう飄々《ひょうひょう》と近づいて来て、提灯を持っていることだから、鉢合せまでにもなるまいけれど、まかり間違って、あの長いものの鞘《さや》にでも触《さわ》ろうものなら、いや鞘に触らないまでも、提灯の光のとどく距離にまで引寄せられて来て、ハッと気がついたのではもう遅い。
こういう場合には、こちらに好意があらば、空咳《からせき》をするとか、生あくびをするとかなんとかして、相当、先方に予備認識を与えて、他意なきことを表明してやる方法を講ずるのが隣人の義務なのです。ところが、こちらには一向にその辺の好意の持合せがないと見え、先方は遠慮なく近づき迫って来て、光は薄いながら提灯の灯《ひ》の届く距離の間で、早くも異風を気取《けど》ってしまいました。
「おやおや、どなたかおいでなされますな」
気の弱いものですと、この際、これだけの事態で、もう口が利けなくなって、腰を抜かし兼ねまじき場合であったのですが、先方はたしかにこちらの異風を認めて、しかとその地点に踏み止まったにかかわらず、意外なのは、それが女の声で、しかも存外しっかりして、地に着いているのはその足許だけではありません。その声だけで判断しても、しっかりしてはいるけれども女の声には相違ないが、決してお雪ちゃんやお銀様のような音調や色合の声ではありません。むしろ良妻とか、賢母とかいうべき性質《たち》の、しっかりした調子で、「どなたかそれにおいでなされますな」と言葉をかけたのですが、こちらは無言でした。こちらからすべきはずの予備認識を以て隣人の義務を果さないのみならず、先方からの挨拶にも答えないというのは非礼を極めている、というよりは、害心をい
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