多分、盛んな篝火《かがりび》が夜明かし焚かれつつあると見える。
そのところはまさに長浜の市街地であります。市街地であればこそ、他の山村水廓とはひときわ目立って火影の赤々と輝くのは当然ではあるが、それにしても、今晩のは明る過ぎる。もし、もの日か祭礼かであるならば、それに準じての物音がここまでも賑《にぎ》やかに響いて来てよい道理ではあるが、そういうもののけはいは少しも無くて、静寂の町々辻々に篝火だけがかくも夥しく焚きなされているということは、事それが、どうしても何かの非常時を示していないことはない。
今晩、何かあの長浜の町に於て、特に非常警戒すべき出来事か、或いはその暗示。
突立った物影は、一心にその町一杯の火の光を見詰めたまま、容易に動こうとはしませんでした。かくばかり熱心に長浜の市街地方面をのみ凝視《ぎょうし》しているところを以て見れば、その目指すところの目的は、あの長浜の町の辻にあるらしい。
つまり、上平館《かみひらやかた》の一間からこの遊魂は、長浜の人里を慕うて下りて行かんとしてここまで漂うて来て、ここで暫く待機の姿勢をとって、そうして、虎視眈々《こしたんたん》として、長浜の町の辻に於ける獲物に覘《ねら》いをつけていると見れば見られないこともない。
前例によると、こういう待機の姿勢には、危険きわまりなき事変が予想される。その昔、甲府城下の闇の夜半の例を以てしても……
さすがに長浜の町の人々はもう先刻心得たもので、それ故にこそ、あの通り昼の如く町々辻々の隅々まで、篝火を焚いている。してみると、虎視眈々たる物影も、迂濶《うかつ》には足を踏み下ろせない道理です。
長浜の町の辻の方にばかり気をとられていてはいけない――ちょうどここに突立って虎視耽々たる物影が、最初たどって来た方面の道から、春照からの表参道を外れてお中道《ちゅうどう》かと疑われたそれと同じ道を、こちらへ向って、平和な会話の音をさせながら、たどたどと歩み来《きた》るたった一つの提灯《ちょうちん》がありました。
「お母さん、あれが長浜の町ですか」
「そうです」
「篝火が盛んに燃えていますね、あれ、陣鉦《じんがね》、陣太鼓の音も聞えるではありませんか」
「さあ、お前、あれにつれ、あんまり勇み足になってはいけませんよ、勇士はいかに心の逸《はや》る時でも、足許を忘れるものではありません」
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