した。一時は、ちょっと変な感じにうたれたに相違ないが、もう、こんなことにはタカをくくってしまって、彼の頭は全く別の世界の追憶やら、想像やらがとめどなく流れ込んで来て、その応接に苦しんでいるものらしい。
たとえば、鷲の子を放してやったことの連想から、尾張へ預けて来た熊の子のことになってみたり――川中島の夜景の思い出から、道庵先生のことになってみたりしてるうちに、この男が炉辺でうつらうつらと居眠りをはじめてしまったことによっても、この場の出来事には、あんまり邪気をさしはさまず、また、先刻、庭前で試みた懸命の型の遊戯が、かなりこの男を疲らせていると見えて、かなりいい心持で、炉辺の温い火にあおられながら、夜舟を漕《こ》ぐというのですから、まず極めて平和なる光景と言わなければなりません。
本来、居眠りをするということは、心のゆとり[#「ゆとり」に傍点]というよりも、油断と言った方がよろしい。
ことに日本の炉辺では、居眠りをすることは非常に危険なる油断の一つに数えられている。なぜとならば、ここで一歩、ではない、一頭をあやまると、目前は火炉なので、その上には※[#「金+獲のつくり」、第3水準1−93−41]湯《かくとう》が沸いている。よく昔の田舎《いなか》の子供は、この炉辺でいい心持で居眠りをしていたために、一頭をあやまって、烈々たる炉中へころがり込むと、待っていたとばかり、上から鍋なり鉄瓶なりの熱湯がたぎり落つる。そこで肉身を烈火で焼いた上に、熱湯で仕上げるという念入りな結果になって、一命を亡ぼすか、そうでなければ一生を見るも無残な不具として棒に振らなければならない。米友ほどの緊張した男が、そういう危険な状態に身を置くことは不覚千万のようだけれど、また、見ようによっては、この男なればこそで、どう間違っても、ざまあ見やがれ! とドヤされるような醜体を演ずることのないのは保証してもよろしいでしょう。いや、改まってそんな保証をするまでもなく、この男としては今日まで、一定の寝室と、一揃いの寝具によって一夜を御厄介になることよりも、居たところ、立ったところが、随時随所に、坐作《ざさ》寝食の道場なのだから、※[#「金+獲のつくり」、第3水準1−93−41]湯炉炭《かくとうろたん》の上に寝ることも、平常底《へいじょうてい》の修行の一つと見てよろしいかも知れません。
とにかく米友は、こ
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