こでいい心持に舟を漕ぎはじめたことは事実なんだが――それにしても奥の一間は……
三十
奥の一間のことは問題外として、白河夜船を漕いでいた宇治山田の米友が、俄然として居眠りから醒《さ》めました。
それは、たしかに、たった今、軒を伝うて颯《さっ》と走ったものがあったからです。
つまり、今時《いまどき》、このところを走るべからざるものが走ったから、それで米友が俄然として眼をさましたのです。走るべきものが走ったのならば、米友といえども、こんなに慌《あわただ》しく居眠りから醒めるはずはありません。
しからばこの際、このところを、走るべきものと、走るべからざるものとの差別は如何《いかん》――これはむつかしい。
天地間のことだから、いつ何物が、いずれより来《きた》っていずれへ走り去るか知れたものではない。現にこの胆吹山にも、相当の飛禽走獣がいるに相違ない。猛禽はさいぜん、子を索《もと》め得て、かの古巣をさして舞い戻ったが、そのほかに地を走る狐兎偃鼠《ことえんそ》の輩《やから》もいないはずはない。それらのものが深夜、軒を走ったからといって、さのみ驚くには当らないでしょう。だがまた、不意に走って人を驚かすものは、空中の鳥類や、地上の走獣とのみ限ったわけのものではない。天空を見れば、不意に星の走ることがある。
流星或いは「抜け星」といって、その地球全面に現われる類《たぐい》でさえも、一昼夜に一千万乃至二千万に及ぶとのことだから、それをいちいち驚嘆していた日には際限のないことです。
しかし、いずれにしても、それは飛ぶべきものが飛び、走るべきものが走ったのであって、そちらは天上、空中、野外、時としては軒をかすめて飛ぶことはあっても、こちらは、木処水上以来、何千年の経験を積んで、そうして構え上げた人間の住居の中にとどまっているのだから、そう慌しく驚起しなければならないはずのものではないのです。まして、宇治山田の米友ほどの剛の者が、俄然として驚き醒めねばならぬほどの、非常なる産物ではありません。
そこで、また当然、米友が俄然として驚き醒めたということの裏には、走るべからざるものがあって、この軒下を走ったという第六感か七感か知らないが、それに働きかけられたために起ったのです。かくて俄然として驚きさめると共に、その眼は例の如く、その手は早くも杖槍の一端にかかっ
前へ
次へ
全220ページ中74ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング