言う。米友はそれに答えました。
「おいらよりか、お前はどこへ寝むんだ」
「わたし」
とお雪ちゃんは、あんまりわるびれずに、
「わたしは、あちらで、先生のお傍へ寝ませていただきましょう――その方が、何かにつけて……」
「うむ」
と米友は火箸をいじりながら頷《うなず》いて、
「おいらは、ここでいい」
「では、ここへお蒲団《ふとん》をこうして置きますから、友さんの好きなところへお寝みなさいな」
「うむ」
「先生、こちらへいらっしゃい」
お雪ちゃんはするすると歩いて来て竜之助の手をとって、抱えるようにして奥の座敷の方へ、畳ざわり静かに歩んで行くのです。
無論、その時には、竜之助の方は面も一通り撫で終って、剃刀も手さぐりで箱の中に納めてしまい、軽く立ち上ると、一方の手はお雪ちゃんに与えて、そうして、一方では刀を提《さ》げて、するすると奥の間の方へ消えて行ってしまいました。
あとを見送った米友は、ふーむと一つ深く鼻息を鳴らして、そうして、そこはかとなく四辺《あたり》を見廻したものです。
さきほどまでの、先へ寝むの寝まないのという仁義と遠慮とが、ここでは全く問題になりませんでした。
お雪ちゃんは、奥の間に不時の珍客を案内したままで、ここへ戻って来ない。
早手廻しといおうか、米友のためには、そこへ寝具が用意してある。その寝具がお雪ちゃんに代って物を言っている。
「わたしたちは、あちらで寝みますから、友さんはここでお寝みなさい」
その時、米友が、一つのびを打って、
「ばかにしてやがら」
と言いました。
奥の座敷の方は、人が入って行ったとも見えない静かさです。
屋の棟には猛禽《もうきん》の叫びもなく、籠の中には鷲の子のはばたきもありません。胆吹山の山腹の夜は、更けきっている。
米友は炉中に三本の薪を加えました。
寝具にはあのとき一瞥《いちべつ》をくれたままで、もう見向きもしないが、薪を加えた炉の火が赤々となったのを無意識にながめているうちに、真黒な南部の大鉄瓶が、ふつふつと湯気を吐き出したのを、うっとり見入って、米友の頭には、また何かしら考えさせるものが流れ込んで来たらしい。
だが、この男が、その時、打って変ったお雪ちゃんの挙動に対して、なんらか嫉妬《しっと》に似た不快な感情を刺戟され、それがために多少やけ気味で、ふて返っているのかと見ると、それは大きな誤解で
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